第260話 忘れ去ったもの
◇ ◇ ◇
世界が色を変えた。
千里によって告げられた一つの真実が、深くシキンの脳に突き刺さったのだ。
「――な」
何だ、これは。
何が起こったのだ。
次の瞬間シキンの頭の中で起こったのは、情報の洪水だった。封じられていた記憶が堰を切ってあふれ出したのだ。
およそ千年ぶりに起こる、混乱。
たった数秒の内に、シキンの意識は長い時を超えて過去に飛来する。
それはなかったはずの記憶。歪んだ人生の始まりだ。
「あなた、どうかしたの?」
一人の女性が、シキンを見つめていた。黒い髪を団子にまとめた、小柄で愛らしい娘だった。
「あ、ああ。なんでもないよ」
自分の口から意識せず言葉が出た。自分のものとは思えない、頼りなく柔らかな声だった。
(何が、起こっているんだ?)
下を見れば、簡素な服に包まれた
(これが我なのか?)
混乱するシキンをよそに、女性の方はまだ少し
「そう、それならよかった。突然黙るのだもの、驚いたわ」
女性はそう言うと同時、赤子の泣き声が聞こえた。
「まあまあ、少し待ってね。お
赤子が寝かされている
この
(我に家族が‥‥? そんな馬鹿なことが)
シキンは千年を生きてきた。当然忘れている記憶も多くあるだろう。しかしそれは覚えておく必要のない
こんな重要な記憶を忘れるはずがない。それこそ、忘れようとしないかぎりは。
「あなた、
「あ、ああ。分かった」
シキンは立ち上がり、籠に近づく。
籠の中から、柔らかな布に包まれた玉のような子がこちらを見上げていた。どんな顔をしていいのか分からない。赤子への触れ方など、長い時の中で必要となることはなかった。
それでも恐る恐る丸い頬に指を当てると、赤子はふにゃりと顔を歪めた。
泣かせてしまったのかと身構えて数秒、それが笑っているのだということに気付いた。
「ぁ、ぁー、ぁう」
小さな指が、シキンの指を握った。少し力を入れるだけで、殺してしまいそうな弱い存在。
怖くて、愛らしい。
シキンは初めての感情に、手を動かすことができないまま、ずっと赤子の顔を眺めていた。
それから、時間は光の速度で流れていった。
幼さの残る妻は落ち着いた女性となり、息子は活発な少年へと育った。
そうして生活する中で、夫婦としての関係にも変化が生まれていた。
「ぁ、ん、あ――!」
闇の中で、白くなまめかしい肌が跳ねる。汗ばんだ肌と肌が隙間なく密着し、互いの吐息が入り混じった。
シキンと妻は
この時代において、仙道は古くから認知される思想の一つであった。派閥や思想の細かな違いはあれど、一部の人間だけの特別なものではなかったのである。
シキンたち夫婦にとってのそれは、健康と長寿を求めるための手段であった。。
個人で行う呼吸法や、夫婦で取り組む
「愛してるわ、あなた」
愛する妻と愛しい息子。シキンの生活は貧しくとも幸福であった。
その生活に影がさしたのは、そう遠くない記憶の続きであった。
「反乱だと?」
「ああ、そのうちこっちにも志願兵のお触れが来るかもしれないな」
シキンの住む街は国境から遠く、戦争とはあまり縁がなかった。
しかし反乱の話はそれなりに耳に入るようになった。原因は、
干ばつや
その影響は、真綿で首を締めるように、シキンの街にも浸食を始めていた。
「今日、これだけ?」
食卓に並んだ食事を見て、息子が口を尖らせた。
仕方ない。日々の食事は月を経るごとに貧しくなっていった。
「食事に文句をつけるものではない。さあ、母さんに感謝していただこう」
シキンは決まって自分の皿には少量だけを盛り、息子と妻が食べられるように意識した。それがどれだけの意味をもっているのか、自分でも分からないまま。
その中で、シキンと妻の日課であった仙道の修練も、変化を見せていた。長寿と健康を目的としたものから、より本格的に『
それは先の見えない不安、死への恐怖が明確な像となったからだった。
『空の悟り』へ至ることができれば、たとえ死を迎えたとしても、魂は救われる。
そう信じていた。そう信じなければ、希望がなければ、生きていけなかったのだ。
戦争であれば敵を倒せばいい。
しかし飢えはどうにもならない。食べられる物はここ一年で探しつくした。
反乱を起こそうにも、盗賊になろうにも、周囲もどこも似たようなものだ。盗るものも盗る力も、気付いた時には失われている。
いずれ動く力も失われていき、シキンの日課は動かずに行える呼吸の鍛錬が主になっていった。
そうして何かが好転する未来を夢に、目を開いた時、シキンは現実を目の当たりにした。
「――、――」
妻と息子が、動かなくなっていた。
玉のようだった肌は、どこにあったのかと疑うほど浮き彫りになった骨と皮ばかりになり、持ち上げてみると、魂が抜けたように軽かった。
事実、もう魂はないのだ。
彼らはシキンを置いて、死の向こう側へ行ってしまった。『空の悟り』へ至れるはずもないままに。
その時、シキンは真の意味で絶望した。
これから先自分が『空の悟り』へ至り、魂の
「ぐ、ぅぅぅあぁぁあああああああ‼」
シキンは乾いた頭をかきむしり、胸を殴り、地面を転がった。
彼にとっての災いは、それだけに終わらなかった。
幸か不幸か、シキンには魔術師としての才能があった。つまり、彼だけは仙道における長寿へと不完全ながら至っていたのである。
飢えに苦しもうとも死なず、日課となった意味のない修練だけを重ねる日々。
街は沈黙し、死の苦しみだけが満ちていた。
今更自分だけが救われたことに意味がないことは自覚していた。ただ自然の大いなる意志が、自分の魂を息子と妻の下へ連れて行ってくれることだけを望み、昼夜を眺め続けた。
その男が現れたのは、街が廃墟となってから数か月が経とうという頃だった。
「すまない、遅くなったようだ」
「‥‥」
石となって固まっていた顔を上げると、そこには不思議な見た目の男が立っていた。シキンがこれまで見てきたどんな人間とも違う。それこそおとぎ話に出てくる仙人とは、このような人物を言うのではないだろうか。
「な、にを――」
何ヶ月も飲まず食わずの喉は、うまく震えなかった。
「もう生き残っているのは、あなた一人だろう。私がもう少し早く来れていれば、結果も変わっていたかもしれない。すまなかった」
「何も、変わら、ないだろう。妻も、息子も、死んだ。私も、早く行かなければ」
「そうか、妻子が‥‥。しかしあなたは生き残ったのだろう。そこには何か意味があるのではないか?」
「そんなもの、あるはずがない」
シキンは嘲笑した。それは男ではなく、愚かな自分をだった。もはやあの二人が死の苦しみから逃れる術はないのだ。
「
シキンはそれまで、男のそばにもう一人いるのに気づかなかった。どうやら少女がかたわらに
「そうだね‥‥」
男は何か少し考えると、膝を地面につけてシキンと視線を合わせた。
美しい男だった。これほど美しい人間をシキンは誰一人として見たことがなかった。
「折角こうして会えたんだ。私はあなたに死んでほしくない。どうだろうか、私の手を取ってくれるのであれば、私は君の願いを叶えるために全力を尽くすことを約束しよう」
「私の、願いだと‥‥」
「ああ。どんなことであってもだ」
シキンは目を閉じた。
思い出すのは、妻と息子の笑顔だけだ。もはや自分はどんな結末を迎えてもいい。生の苦悩も、死の恐怖も、何もかもを受け入れよう。
「妻と息子を、死の苦しみから、救いたい。そんなことが、できるのか――?」
男はそれを聞き、頷いた。
「できる。今の私にそれ程の力はないが、必ずその願いを
男の言葉は不思議と信頼することができた。会って間もない、何も知らないというのに。
シキンは男の手を取った。
主となった男の助けとなるためには、仙道の長寿は必要不可欠。しかし、『空の悟り』のむなしさを実感したシキンには、それを維持することはできなくなっていた。
故に、彼は一計を案じた。
これまでの修練が初めから主のためのものであったと、自らの記憶を暗示によって改ざんしたのである。
妻と息子の存在は、仙道の記憶と深く結びついている。
仙道の記憶を塗り替えるということは、妻と息子の記憶も塗りつぶさなければならないということだった。
主の、そして自らの目的のために。
彼は大切な者を救うため、最も大切な記憶を封じることを決めた。
そして名も無き仙道の修練者は失われ、『
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