第127話 手放したのは
届いたメールを読みながら、画面の右下に移る時間が気になって、さっきから何度も同じ文章を繰り返し目で追っていた。さっき淹れてもらったばかりのコーヒーは、既に冷めきっている。
加賀見綾香は鈍痛のする額を指で揉み、再び画面を見る。
無機質な文面には、代わり映えのしない報告ばかり。
カナミを襲撃した魔族も、白銀もまったく見つからない。
あれだけ特徴的な存在なのだから、そんなわけないだろと思うのだが、実際に何の情報も入ってこないのだ。
本部にも連絡し、多数の対魔官を動員しているのにこの有様だ。
綾香は知る由もないが、ロゼが魔道具によって張った結界によって勇輔とラルカンの戦いは隠されていたのである。
異世界の英雄、カナミを一蹴する怪物がいる。当然日本を守護する対魔官がそれを見過ごせるはずもない。
本来なら綾香も現場に出て捜索に加わりたかったが、カナミが起きた時のことを考えると、話を聞くには綾香が最適ということで残っていた。
遅々として進まない捜査に苛立ちが募る。
そしてもう一つ、綾香を悩ませていることがあった。
ダンッ! とけたたましい音が背後で響き渡り、綾香を含め部屋にいた対魔官たちがそちらを振り返った。
「‥‥月子、帰ったの」
そこには扉を開けた伊澄月子が険しい表情で立っていた。
彼女は第二位階対魔官であり、綾香の所属する三条支部では最も優れた魔術師だ。
月子はつい先日まで新人研修の引率で遠征に出ていた。その報告も綾香は聞いていたが、予想以上の怪異を相手に、相当な苦戦を強いられたらしい。
それも無事終わって帰ってきたようだが、月子の表情は仕事を終えた人間のものではなかった。
まるで敵を前にしたかのような鋭い視線で綾香を睨んだまま、つかつかと歩いてくる。
そして目の前まで来ると、硬い声で言った。
「魔族が現れたって、本当?」
「まず挨拶くらいしなさいよ‥‥。本当よ、今はどこにいるのかまったく分かってないけど」
綾香はため息を吐きながら答えた。
仕事帰りで申し訳ないが、月子にもすぐに捜査に出てもらわなければならない。
そう思っていたら、月子が言葉を続けた。
「ごめん、それじゃあ私も捜索に出る。‥‥それで、勇輔はどこ? ここにいるって聞いたけど」
「‥‥」
ああ、本当に聞きたいのはそっちかと綾香は月子の目を正面から見返した。
誰かが漏らしたか、あるいは話しているのを偶々聞いたのか。
どちらにせよ面倒なことになった。
綾香が目下頭を悩ませているもう一つの事態。それは隠したところですぐに露見することだった。
故に隠すこともせず、告げる。
「勇輔君はいなくなったわ」
「っ! どうして!」
月子が声を荒げるが、そんなのは綾香の方が聞きたいくらいだった。
カナミと会わせた後は、事態が収束するまでこの施設にとどめておくつもりだった。非戦闘員の勇輔が外に出たところでできることはない。
むしろ下手に動き回られれば迷惑だ。
だからこそ対魔官を一人傍に置き監視していたのだが、気付いた時にはその姿は忽然と消えていた。監視カメラを確認したところ、当たり前のように外に出ていく勇輔の様子が映っていたが、その後の消息は完全に不明だ。
何のために出ていったかなんて考えるまでもない。リーシャたちを探しに行ったのだろう。
下手をすれば、既に敵と出会っている可能性もある。そうなれば生きているかどうかさえ分からない。
月子が動揺するのも無理はなかった。彼女は一度呼吸を整え、怒気を抑えるように言葉を口にした。
「綾香も報告は聞いてるはずでしょう。勇輔は昨日の戦いのせいで傷を負っているし、そもそもこんな争いに巻き込まれること自体おかしいわ。すぐにでも連れ戻さないと」
「もうとっくに捜索してるわよ。後はもう見つかってくれるのを待つしかないわ」
「そんな、無責任な‥‥!」
その瞬間、空気が変わった。疲れ切っていた綾香の目つきが鋭くなったのだ。
「無責任?」
「‥‥そうでしょう。一般人を守るのが私たちの役目のはずよ」
綾香がゆっくりと立ち上がった。彼女は、月子を見下ろす形になる。
今までにない綾香の様子に、月子も目を細めた。
「―でしょ」
「なに?」
「無責任なのはあんたの方でしょ、月子」
思いもよらない言葉に月子は聞き返した。
「無責任? どうして私が」
「私だってできることは全部やってるのよ。そんなに勇輔君が心配だったら、一番近くで守ってあげたらよかったじゃない」
綾香の言葉に、月子の黒髪が浮き上がった。金の火花が散り、バチバチと音を立てる。空気が焼け焦げ、緊張感が張り詰めた。
「‥‥できるなら、私だってそうしたかった。けど、私の傍にいる方がよっぽど危険だわ」
「そうやって理由つけて逃げたんでしょ」
「っ――!」
硬い声に今度こそ雷が走った。月子はそれを抑えることもせず、綾香を睨みつけようと顔を上げる。しかしそれよりも早く綾香の手が月子の胸倉を掴み、顔を引き寄せた。
小柄な体が凄まじい力に揺れる。
怒りに染まった姉の顔が、すぐ目の前にあった。
突然のことに月子は目を見開いた。
「私はあんたの人生だから、あんたがどんな選択をしてもそれでいいと思ってた。納得して先に進むなら、別れだって経験でしょ。でもね、そうやって手放したものでうじうじ後悔してると、腹が立つのよ」
その勢いに飲まれそうになりながら、月子は噛みつくように反論した。
「私は別れたことを後悔なんてしてない。あれが一番最善の選択だった」
「最善最善って、あんだけ落ち込んどいてよく言うわ。大体、あんたにとって最善だと思えることが、勇輔君にとっても本当に最善だったわけ?」
「それは――」
言葉を続けようとして、それ以上言えないことに気付いた。
当然だ。別れようと決めたのは自分で、そのことについて勇輔に真実は何一つ語っていない。危険から遠ざけるという意味では彼にとってもいいことだろう。
しかし最善かと問われた時、別れた時の顔が過る。
暗く沈んでいく彼の目が、月子を見ていた。
言葉の矢を失った月子に、綾香はそのまま殴りつけるように言った。
「あんたは結局、自分のせいで彼が傷つくっていうことが怖くて、そのせいで嫌われるんじゃないかって不安で、そこから逃げ出しただけでしょう」
「‥‥そんな、こと」
「あるでしょ。本当に勇輔君のことを案じるならまず相談すべきだったはずよ。でも話し合いからも逃げた。そうやって全部放り出して、今更何が心配よ。自分勝手も大概にしなさい」
鈍い音が身体の内から響き渡る。違う、それは心が軋む音だ。月子のことをよく知る綾香の正論は、防御も何も許さず、一番脆いところを粉々に砕いていく。
それでも綾香は止まらなかった。
本当ならここで止めるべきだったのだろう。いつものように諭し、姉らしく次の道を示してやるべきだった。
だが、できなかった。
リーシャと勇輔が共に住むにあたり、綾香は勇輔の素性を一通り調べていた。月子が知るような神隠しのことも、全身に傷が残っていることも、全て知っている。それは国が調べた正式な情報だったからだ。
そして、月子も知らないそれ以上のことを、彼女は知っていた。
曰く、拉致され拷問を受けた。曰く、どこかの諜報機関で戦闘員として訓練されていた。曰く、人体実験の被験体にされた。
報告書の中に記載された予想は、どれも非現実的で、残酷だった。
そして彼は間違いなく、そんな非現実の中にいたのだ。
いくら調べても一切の情報が出てこない空白の五年。全身に刻まれた壮絶な傷跡。そして、心理テストで明らかにされた倫理観の欠如。
山本勇輔という少年は、誰の目にも異常だった。
そんな異常な人間が、日常生活を当たり前に送れるはずがない。
そんな異常な人間を、容易く受け入れられるはずがない。
社会復帰した勇輔のその後は、端的にまとめられていた。時折喧嘩や問題行動は起こすが、それ以上の異常性は認められず。しかし五年ぶりに再会した家族と打ち解けることは困難で、大学進学を機に一人暮らしを始める。
その短い文章の中に、どれだけの苦悩と悲しみがあったのだろうか。
ようやく会えた家族に受け入れてもらえず、真の理解者はこの世に一人も存在しない。姿の見えない重い過去だけが、その背にしがみつく。
その中で生きるのは、どれ程辛い道であったろう。綾香には想像することもできなかった。
それでも彼は言うのだ。
見ず知らずの少女のために、頑張りたいと。
「あんたが」
月子の服を掴む手が、震える。眠るカナミを見た時の勇輔の顔が、忘れられない。誰かを失うことに慣れ切ったあの目が。
きっと何度も何度も誰かのために手を差し伸べて、その度に何かを失ってきたのだろう。じゃあそんな彼は、一体何を
「あんたが支えになってあげればよかったじゃない! 特別であることの辛さも、誰かに捨てられることの痛みも、よく分かっているはずでしょう!」
「‥‥」
もはや月子は何を答えることもできなかった。
思い出すのは数え飽きた畳の目と、遠くでこちらを窺う両親の顔。魔術師の家で天才として生を受けた月子に、当たり前の家庭は存在しなかった。
遠くなる父の手が、母の温もりが、仕方のないものだと割り切ったのはいつの頃だっただろう。
――そうか、今度は私が手放したんだ。
「自分で捨てといて悲劇のヒロインぶるのもいい加減に――!」
更に言葉を重ねようとした綾香の肩を、同僚が掴んだ。
「加賀見、もうそのくらいにしといてやれ」
「‥‥離しなさい。こういうのは言わないと分からないのよ」
「もう十分だろ。大体姫さんだってこういう経験は薄いんだ。初めてのことでそこまで言ってやるな」
「‥‥」
綾香は言葉を噛み潰すように奥歯を鳴らし、掴んでいた手を離した。
月子は支えを失い、その場にへたり込む。爆ぜていた魔力はをなりを潜め、黒髪が頬に貼り付いた。
「ぁ」
傷だらけで月子を見つめる勇輔の顔が浮かんだ。優しい表情なのに、いつも何かを諦めているかのような眼をしていた。
そんな彼が笑ってくれるのが嬉しくて、私にとっては必要な存在なんだって伝えたくて、一緒にいたはずだ
自分は何をしてきたのだろうか。彼を傷つけたくない、幸せでいてほしい、そう願いながら何をした?
私のことなんてすぐに忘れるだろう、彼ほどの人ならもっといい人が見つかるはず。そんな理屈で自分を納得させて、勇輔の気持ちなんて何一つ考えていなかった。
リーシャたちと行動を共にすると言った時もそうだ。月子は自分の思いを口にするばかりで、勇輔が何を考えているかなんて聞きもしなかった。困っている人がいたら見捨てられない人だって知っていたはずなのに。
そういう人だから、好きになったはずなのに。
「――」
噛んだ唇から血が伝うのが分かった。
ここで自分が涙を流すのは許されない。けれどどうしようもない怒りと悲しみが全身を襲う。
――馬鹿だ、私は。
月子の紫電がぶつかったのか、焦げ付いた紙コップからじんわりとコーヒーが染み出し、デスクの上に広がっていく。
震える手を握ってくれる人は、そこにはいなかった。
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