第236話 もう一つの夜

 小さな音を立てて、ドアが閉まる。


 顔を上げると、さっき部屋を出ていったはずのリーシャが、入口でぼんやりと立っていた。

「‥‥どうしましたの?」


 カナミは読んでいた本を閉じて置いた。


 リーシャは声が耳に入っているのか入っていないのか、真っ直ぐに歩いてくると、ベッドにトスン、と腰かけた。


「‥‥」


 カナミは緩く波打つ髪を耳にかけながら、ため息を隠す。


 リーシャがこうなってしまった理由は、明白だった。カナミは全員の同意の元、この家にいる間、『シャイカの眼』で家の内部を常に監視している。


 もちろん最低限のプライバシーには配慮しているが、誰がどの部屋にいるのか、彼女は全てを把握していた。


 たった今、勇輔の部屋に月子がいることも知っていた。


 そしてリーシャが勇輔の部屋を訪れようとし、戻ってきたことも。


 彼女と勇輔の関係は知っている。大学に通っていれば、その手の情報はいくらでも集めることができた。


 初めにカナミを襲ったのは、驚愕。ついで、行き場のない苛立ち、嫉妬。そして己への失望。


 その気持ちに今折り合いがついているかと問われると、すぐに肯定する自信はない。


 それ程までに、二人の間には特別なつながりがあった。自分たちでは決して触れることができない絆が。


 リーシャが気付かないはずがないのだ。


「何か、気になることでも?」


 カナミはリーシャの隣に座り、再度声を掛けた。


 返答はしばらく経ってから返ってきた。


「‥‥分からないんです」

「何がですの?」

「私、ユースケさんには幸せでいてほしいと思っています」


 前を向いたまま、リーシャは自分の思いを確かめるように言った。


「ええ、そうですわね。わたくしもそう思いますわ」

「私はそのためなら、どんなこともできる自信があったんです」


 そこまで言って、リーシャは後ろに倒れこんだ。布団がはずみ、白の中に彼女は沈んでいく。


 自分を恥じるように、リーシャは顔を両手で隠したまま続けた。


「それなのに、私は‥‥今‥‥すごい我が儘を言いたい気分なんです」


 声は震えていた。


「‥‥」


 カナミにしては珍しく何を言っていいのか分からず、散らばった金髪を撫でる。リーシャはされるがままだった。


 『歪曲の魔将ディストル・ロード』ラルカン・ミニエスとの戦い。


 その中でリーシャは勇輔の正体を知ったという。その時何があったのか、カナミは詳しくは知らない。


 それでも戻ってきた勇輔を見れば、推測するのは容易だった。あの人の特別であることを諦めた自分では、絶対に立てない場所に、リーシャは進んだのだろう。


 過去にはエリス・フィルン・セントライズが、伊澄月子がいた場所の、最も近いところ。


 もしもリーシャが聖女ではなく、一人の人間として成長することができれば、今胸の中で暴れる感情に名前を付けられるのかもしれない。


「大丈夫、何もおかしなことはありませんわ」


 願わくば、その瞬間まで自分たちがここにいることができますように。


 明かりに溶けて消えてしまいそうな祈りが届くのに、夜は待ってくれるのか。それは誰にも分からない。

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