第357話 大人たちの共同戦線
◇ ◇ ◇
加賀見綾香は不機嫌を隠そうともしない態度で、とある建物の廊下を歩いていた。
動きやすさを重視した普段のスーツよりも幾分高いものを着て、化粧もいつもより気合いが入っている。
それは彼女にとっての武装だ。
ここは悪霊よりもよほど悪どい連中が巣食う伏魔殿、対魔特戦本部である。
綾香はここが嫌いだった。
魔術師なんて、本質的には群れることを嫌う自分本位な連中ばかりだ。実力が高ければ高いほど、自己中心的になる。
そんな輩が取り仕切っている場所など、頼まれたって行きたくない。
最近は
ただでさえ先日は、勇輔とエリスの再会の場を作って、月子を凹ませたばかりなのだ。泣きっ面に蜂である。
しかし今の本部は綾香の知るものとは随分と雰囲気が違っていた。建物全体を覆う陰鬱で重い魔力を感じない。
いつもなら妖怪のような
綾香は普段は来ない部屋の前で立ち止まると、ノックをした。
そして返事を待つよりも先に扉を開ける。
「失礼します」
無礼千万な突入に対し、部屋の主はそれを分かっていたような態度で座っていた。
「わざわざありがとうございます、加賀見さん」
待っていたのは、ホストのような外見の男だった。趣味を疑う竜の刺繍が入ったスーツは、この男以外に着る者はいまい。
くすんだ灰色の髪の下で、穏やかな目が綾香を見ていた。
綾香はその対面にドカッと腰を下ろした。
「死にかけたって聞きましたけど、案外元気そうですね」
「そんなことはありませんよ。今も体調は万全じゃありません」
「あの領域内の外傷は引き継がれないはずでは」
「戦った相手のせいか、それとも僕の自業自得ですかね」
そうですか、と綾香は聞いたくせに興味なさげに答えた。
今日綾香をこの場に呼んだのが、目の前の男、
第一位階対魔官である彼は、綾香よりもよほど上の地位にいる。
そんな彼に対し、ここまで強い態度を取るのには理由があった。
「それで、今日は何の用でしょう?」
「その前に、謝罪をさせてください。伊澄さんには、大変な心労をお掛けすることになりました」
「‥‥それは本人に伝えてください」
乾いた声で、綾香は答えた。
土御門の謝罪には、恐らく二つの意味が込められていた。一つは夏休みに鬼と戦わせたこと。もう一つは、この間の東京クライシスでの出来事だろう。
「‥‥本部は、
「今はそちらにリソースが割ける状況じゃありませんよ。知っているでしょう」
「そう。‥‥あなたは、あなたは、本当に何も知らなかったんですか?」
東京クライシスが起きたあの日、伊澄本家が襲撃され、月子の親族である伊澄天涯と、伊澄甘楽の二人が殺された。
幼い頃から伊澄家を出入りしていた綾香にとっては、よく知る二人だ。
土御門は綾香の目をまっすぐに見て答えた。
「申し訳ありません。僕はやはり警戒されていたのでしょう。あの日のことに関しては、何も情報がありませんでした。そしてそれは、
「そう、ですか。ありがとうございます」
分かっている。これは八つ当たりだ。誰もあの場で伊澄家が襲撃されるなど考えていなかった。
市民の命を守るので精一杯。
土御門も命を削り、戦ったのだ。彼を責めるのはお門違いにも程がある。
その意味を込めて、綾香は深々と頭を下げた。
「──失礼します」
綾香が頭を上げたタイミングで、一人の少女がお茶を机の上に置いた。
その顔には見覚えがあった。
「あなたは」
「お久しぶりです。勇輔たちは元気にしてますか?」
キャスケットを被った、ボーイッシュな少女だ。過去、土御門のメッセンジャーとして綾香たちに接触してきた、
「久しぶりね。あなた、こっちには立ち寄らないんじゃなかったの」
千里は肩をすくめた。
「事情が変わったんですよ。僕は晴凛のボディガードです」
「あの事件で、本部に詰めていた多くの上層部が仮死状態になりましたから。皮肉なことに、今の方がよほど風通しがいい」
土御門はそう言って軽く笑った。
不謹慎極まりないが、綾香は言いたいことが痛い程に分かった。
怪異そのものである千里が、肩をすくめて言った。
「おかげで僕も入り込めたしね。まだ
「あなたたちは、この後どうするつもりなの?」
土御門は対魔特戦部の最高戦力、第一位階の魔術師だ。今回の東京クライシスを止められなかった責任は、綾香が想像するよりも遥かに重いはずだ。
「しばらくは治安維持に手一杯ですね。勇輔君の仲間が尽力してくれているようだけど、それだけでは止まらない。それに、折角向こうが対魔特戦部から手を引いたんです。改革するのであれば、今しかない」
「対魔特戦部の、改革」
「はい。だからこそ加賀見さん、あなたとは一度話したいと思っていたんです」
「どうして私と? こう言ってはなんだけれど、私はあなたたちみたいに特別な力は持ってないですよ」
綾香は自分の力をよく理解している。勇輔や月子たちの戦いに割って入っても足手まといになるだけだし、対魔特戦部の改革なんて
三条支部でおっさん相手に息を巻いているのがお似合いだ。
土御門はその返答に対して首を横に振った。
「特別ですよ。あなたは魔術師の中ではとても珍しい。自分よりも人のことを優先して考えることができる人だ。僕たちのような人間は、どうしても自分のことだけを考えてしまう。生まれ持った
「それは迷信でしょう」
魔術師として大成する人間は、人間ではない。
それは対魔官の中でもよく言われている言葉だった。自身の探求にありとあらゆるリソースをつぎ込み、他者のことなど
そういった人間こそが、魔術師として
「いや、事実だと思いますよ。僕はあの日、勇輔君たちの言う魔術の深奥へと片足を踏み入れた。いや、たまたまはみ出たというべきでしょうか。その時に理解しました。真っ当な倫理観や道徳の道に、あれは存在しないと」
「勇輔君たちは、そんな人でなしではないですけど」
その言い草だと、勇輔たちはよほどの狂人ということになる。
しかし土御門は笑って付け足した。
「別にそういうわけではありませんよ。彼らは死地に立つ機会が僕たちよりも遥かに多かった。彼らの強さは、本能的に我を通さなければならない環境で適応した結果でしょうね」
「ああ、そういう」
「だからこそ、今の対魔特戦部には、あなたのようにどんな人とでも仕事ができる人間が必要になります。僕は、どんな人間でも信用し、助けようとするあなたの心が、輝いて見える」
「‥‥ただ警戒心が無さすぎるだけでしょう」
「信用するには、強い心がいります」
綾香はため息を吐いた。
結局、彼女の選択肢なんて初めから一つしかない。
「私はいくらでも手伝います。その代わり、あなたも勇輔君たちを、最後まで助けてあげてください。それが条件です」
「もとよりそのつもりです。彼には救われましたからね」
「あなたは、もう戦わないのですか?」
土御門の実力は折り紙付きだ。あの勇輔が手放しでほめていたのを、綾香も聞いていた。
「‥‥」
土御門はゆっくりと手を持ち上げ、綾香の前に差し出した。その手は、病的なまでに白く、微かに震えていた。
「これは‥‥」
「たった一度、沁霊術式を使った結果です。これまでにない強敵を相手に僕自身の格がその瞬間だけ、引っ張り上げられたんでしょうね。身体なのか魂なのか分かりませんけど、それに耐えきれなかった」
あの第一位階をして、耐えきれないというのか。
綾香は改めて戦慄した。
『東京クライシス』は、敵の沁霊術式によって成立していたと聞かされている。
勇輔や月子が戦っている舞台は、自分が想像していたよりも遥かに高いのだと、思い知らされる。
月子はそんな人たちの中で、戦おうとしている。
「それに手持ちの術式もほとんど使い切ってしまったんですよ。表に出ても足を引っ張るだけでしょうね」
「そうですか、分かりました。それじゃあ」
綾香は差し出されていた土御門の手を取った。
ずっと輝かしい才能を隣で見てきた。
魔術師として大成する夢が、夢でしかないことを、綾香は幼いうちから理解していた。だからきっと、こういう道を進むのだろうと、予感していた。
それが不満なわけではない。
ただ彼女たちの背中を守る力のない自分が不甲斐ないだけだ。
だからせめて、あの子たちが歩く道を少しでも歩きやすくするのが、自分の務めだ。
「よろしくお願いします、土御門さん」
「よろしくお願いします」
化け物だと思っていた人の手は、思ったよもずっと痩せていて、冷たかった。
彼もまた、支えてあげなければならない人だ。
それから二人は情報の交換を行い、日も落ちようという頃に、綾香は帰ろうとした。
そんな彼女に、土御門が言った。
「そういえば加賀見さん、こうして協力関係になったわけですし、僕のことは土御門で構いませんよ」
「そういうわけにもいきませんよ。第一位階の対魔官に向かって、そんな馴れ馴れしくは話せません」
「うーん、そうですか。僕はあまりそういうことは気にしませんし、年下ですから、もっと砕けてもらった方が話しやすいんですが」
「──はい?」
返答に、間が空いた。
今、なんて言った?
持ち上げようとしていた鞄を落としていることにも気づかず、綾香は聞いた。
「待って待って。あなた今、年下って言いました?」
「はい、言いましたけど」
「誰が?」
「僕がです」
「‥‥」
ニコニコと笑みを浮かべる土御門の顔をまじまじと見る。
元々年齢不詳というか、第一位階というバイアスや、目立つ灰色の髪のせいで、その顔を注意して見ることは初めてのことだった。
言われてみれば、肌の張りも顔立ちも、中年という感じではない。
「あなた、いくつなの?」
「今年で二十一になります。勇輔君や伊澄さんの一つ上ですね」
「マジか──」
二つも下かい。
構えていた自分が何だか大人気なく感じて、綾香は改めて土御門の方を見た。
「じゃ、またよろしくね土御門君」
「はい、よろしくお願いします」
綾香は知らない。月子以上に孤独な人生を歩んできた土御門晴凛にとって、自分達の関係がどれほど
彼の言葉が全て嘘偽りない、真実だということが。
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