第139話 復讐の果て

 ロゼは心臓を鷲掴みにされたかのような緊張感を覚え、無意識のうちに深く呼吸を繰り返していた。


 一人の男が、イリアルを抱きあげ、そこに立っていた。


 その姿は普段のように煌びやかな鎧に覆われてはいない。剣も持たず、どこにでもいそうな平凡な男だ。


 しかしロゼはそれが勇者だという確信があった。


 ずっと探し続けていた怨敵。この数年間、どれ程憎悪に身を焦がし、怒りに我を失っただろうか。


 全ては勇者白銀が原因だった。その相手を見間違えるはずがない。


 だというのに、ロゼは疑いを持たずにはいられなかった。


 本当にこの男が勇者ですか。


 つい数時間前、ラルカンと勇者が戦っている様子を見たばかりだ。その姿だけでなく魔力の質や身に纏うオーラも、この目と肌で実際に感じ取ったのだ。


 だが目前の男から感じるそれは、記憶のどれとも異なっている。


 勇者だという確信と、それを否定するような違和感。


 その奇妙なズレが、ロゼの選択肢を奪っていた。


「ぁ、力、及ばす、申し訳──」

「大丈夫です。すぐにユネアのところに行きますから、休んでください」


 勇輔はロゼを見ることもなく、イリアルに言う。


 ラルカンから負った傷は死なずとも、浅い傷ではなかった。ともすればロゼであっても倒せる程に弱体化しているはずだ。


 その証拠に鎧すら顕現できていない。

 いっそここで殺してしまおうか。戦う力を失った勇者など、ラルカンの前に連れて行く価値もない。


『やっちまうか?』


 フィフィが小さな声で言った。どんな時でも騒々しいはずのフィフィが声を潜めている、その事実が自分の中の違和感を大きくしていく。


 考えあぐねている間に、勇輔はロゼを振り返った。


 そこには激情にかられていた面影はない。イリアルがやられたということにすら、心を波立てている様子は見られなかった。


 ――ふざけるな。


 刹那ロゼの心に湧き上がったのは、違和感を燃やす怒り。まるで憎しみを糧にここまで来た自分を否定しているような眼が、許せない。


 やめろ、お前が私のことを否定するな。お前だけは、お前だけは──!


「フィフィ、殺しなさい!」

『おうよ!』


 殺意が理性と忠義を塗りつぶす。フィフィが応え、駿馬ネーべが駆けた。


 勇輔の視界から消えるように横へ回り込み、折れた枝葉を蹴り砕きながら加速する。


 猟狼ベリアとイリアルの戦いによって拓けた大地は、駿馬の走りを何も妨げない。


 この闇の中はロゼにとって圧倒的に有利。音を頼りに戦おうにも、それすら置き去りにする速さで動いているのだ。


 生身で捉え切れるわけがない。


「数多の罪業ざいごうを抱えて冥府に落ちなさい、勇者‼」


 駿馬ネーべの角に光が灯った。


 どうやってイリアルを助けたのかは知らないが、今度は光弾など使わない。光を宿した角で突き殺す。


 一閃の矢となってロゼとフィフィは勇輔に突貫した。


 駆け抜けた大地が捲れ上がり、大気が焼け焦げる。


 その背を角が貫こうとした瞬間、勇輔が振り向いた。気づいたところで遅い。魔術すら発動していない状態では、ロゼの攻撃を止める術はない。


 その見立ては数時間前までであれば正しかった。


 勇輔の目が翡翠の光を湛え、イリアルを左腕で抱えたまま右腕が跳ね上がる。


 その手に握られるのは歴戦のバスタードソード。


 その目が見るのはこの世の理、エーテルと魔力の流れ。


 魔術とは、自己の遥か深きに住む沁霊の力だ。人族も魔族も形なき心に姿を与えるため、あらゆる手段を取ってきた。


 それが詠唱であり、魔法陣であり、血筋であった。


 元々魔術とは抽象的なものであり、その実体というのはひどく曖昧だ。


 だからこそ一度発動した魔術を打ち破ることはできても、消すということは不可能に近い。常に流動し、その全容を把握できるのは術者本人だけだからだ。


 だが、それをしようと試みた愚か者がいた。


 流動する一瞬一瞬の魔力の流れを読み切り、その要所を術者が認識できない程の速度で全て切り裂くという荒唐無稽こうとうむけいな絶技。


 勇輔は星々のように輝く魔力の要所に剣を滑らせながら、その名を口にした。




「『星剣ステラ』」




 星座が紡がれ、駿馬ネーべが消えた。


「っ──⁉︎」


 宙に放り出されたロゼは驚きに声すら出せなかった。


 斬られたのではない、魔術を分解された。発動していたロゼだからこそ分かる。今の一瞬で魔術が構築できなくなったのだ。


 まるで鋏を入れた縫い物のように、魔力が解けて意味を失った。


 あり得ない、魔術とはそんな単純な構造ではないのだ。そんな芸当できるはずがない。


 そんなことが可能であれば、それは魔術師にとって最悪の天敵だ。


「くっ!」


 地面に着地すると同時に、ロゼは残った魔力を回した。幸いにも消されたのは駿馬ネーベだけだ。フィフィはまだ残っている。


 魔力が黒く燃え、視線が怨敵を射抜く。


 私の命よりも大切なものを奪おうとしたお前を、私は許さない。


「勇者ぁああああ‼」


 フィフィが乗り移った髪が硬質化し、いくつもの刃となって勇輔に殺到した。

 殺意の刃を前に、勇輔は剣で捌くこともせず全てを避け、肉薄した。


 そして呟く。


「ごめん。行かなきゃならないんだ」


 勇輔は掌底をロゼのみぞおちに打ち込んだ。魔力のこもった一打は容易くロゼの意識を奪う。


「わた、しは‥‥」


 ロゼはそれでも勇輔へと髪を伸ばそうとしたが、その切っ先は届くことなく解け、力なく落ちていく。


 勇輔は倒れるロゼの身体も片手で支え、地面に横たえた。


 夜の終わりが近づいている。


 長きに渡る戦いの決着と共に。

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