第163話 カフェテリアにて
時はいささか
部活やサークルがある人間だけがまばらに歩く大学構内を、金剛総司は一人で歩いていた。
大学二年の夏休み、まだまだ就活も卒論も縁遠い総司からすると、わざわざ学校に来る理由はない。しかし教授に呼ばれてはそれを無下にすることもできなかった。
「いやあ助かったよ金剛君。力仕事できる人が今は足りなくてね」
「全然大丈夫っすよ」
研究室に新しい棚を入れるということで、総司にお呼びがかかったのだ。大量の本と研究資料が積み重なった研究室は、ちょっとした模様替えも大仕事である。
普段から日雇いのバイトをこなす総司は、こういう時重宝された。
「これ、今日のバイト代ね。皆には内緒で頼むよ」
「別にいいですよ、そんなの」
「いやいや、仕事にはきちんとした対価を支払わないと」
別段バイトのつもりで来たわけではなかったのだが、無理くり渡された封筒を突っ返すこともできず、総司は研究室を出た。
とりあえず
セミロングの茶髪に、センスのいい私服。
「‥‥」
総司は少しだけ立ち止まると、カフェテリアに進路を変えた。
◇ ◇ ◇
「むーん、どういう意味なのよこれ。意味が分からない‥‥」
「伊勢物語か?」
「そうそう、現代に古典の恋愛小説を解読しろっていうのも変な話――」
そこまで言って、陽向は自分に話しかけてきたのが誰か気付いた。
「総司さん⁉」
「そんなびっくりしなくてもいいだろ。周りの迷惑だぞ」
慌てて陽向は口を閉じて周囲を見渡す。幸いにも周りの注意は引かなかったらしい。陽向はにらめっこしていた本を閉じる。
『伊勢物語』は、
恋愛や友情などを主に描いた作品で、在原業平は百人一首でも有名だが、一方では稀代のプレイボーイとして名をはせている。
陽向はまだ一年生だが、将来的に入りたいゼミがあるので、それに向けて幾つかの課題をこなしているところだった。
机の上に置いてあったノートやら筆箱やらをまとめて脇に避ける。
総司は陽向の対面に座った。アイスコーヒーを買ったらしく、氷が涼やかな音を立てた。
「どうしたんですか。夏休みなのに」
「ああ、教授にちょっと頼まれごとをしてな。帰ろうかと思ったんだけど、陽向が目に入ったから寄った」
「そ、そうですか」
陽向は普段通りの笑顔を張り付け、アイスティーを一口飲む。
それを見ながら総司は単刀直入に聞いた。
「勇輔となんかあったのか?」
「‥‥なんにもないですよ。合宿以降会ってないですし」
恋愛初心者であろうと、コミュ力お化けの陽向だ。表情を崩すこともなく答えた。そして返す刀で問いかける。
「というかいきなりなんでそんなこと聞くんですか?」
「そりゃ、明らかに避けてるだろ。あいつのこと」
総司はあっけらかんと答えた。
否定を許さない、当たり前の事実を確認するように。
「避けてません。そもそも会ってないってさっき言ったじゃないですか」
「そうさな、グループチャットでも一切絡まないし、皆で会おうとすると理由つけて来ないし、そりゃ会わんだろ」
「っ‥‥」
陽向はそこで自分がはめられたことに気付いた。
陽向たちは合宿に行く前に皆が参加するグループチャットを作っている。確かにそこで総司がよく話しているなとは思っていたが、あれは自分の反応を見るためだったのだ。
普段の陽向だったら気付いたろうが、考え事が渋滞していたせいで気付かなかった。
口をついてでた言葉は、自分でも分かるほどに苦し紛れだった。
「それは課題が忙しかったからですよ」
「別に言いたくないなら言わなくてもいいんだけどよ。勇輔も気にしてるみたいだぜ」
「‥‥」
ずるい言葉だった。
総司自身、分かっていて言った。別段勇輔から相談されたわけではないが、あれも嘘がつけない男である。あからさまに陽向に気を使っているのが分かった。
大方松田も気付いているだろうが、不真面目に真面目な男だから、自分が出る幕じゃないとでも思っているに違いない。
そうなったら、動けるのは総司だけだ。
「あー、もう」
陽向は一度上を向き、唇を真横に引き結んでから総司を見返した。
昔からこの人があまり得意じゃない。チャラそうな見た目なのに落ち着いていて、周りをよく見ている。大体の人は言葉の上っ面だけをなぞって人を判断するのに、総司は言葉の奥の人を見据えている。
だから苦手なんだ。その場限りの言葉と態度ではあざむけない。
観念して口を開いた。
「この話は他言無用でお願いしますね」
「はいよ」
陽向は覚悟を決めて合宿の時に会った出来事を総司に話した。
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