第312話 水と木
十八時は現代ではさほど遅い時刻ではない。
しかしながら季節的にも既に周囲は暗く、魔と顔を合わせるにはちょうど良いロケーションだった。
この地は本来人が立ち入らない、意識の穴とでも呼ぶべき区域。
人通りも少なく、そんな道のど真ん中に、それはいた。
ヒトガタだ。
身長は三メートル近いだろう。上半身が異様に大きく、下半身は小さい逆三角形の体型。全身は黒く、頭の部分には、人の顔のように白い三つの光が浮かんでいた。
家の屋根に立った綾香は、そんなヒトガタを見下ろしていた。
「は、見るからに近距離パワータイプって感じね。頭悪そう」
「油断するなよ加賀見。別のヒトガタは第三位階の対魔官三人でも倒せなかった」
「知ってるわよ。だからあんたを呼んだんでしょ」
綾香の言葉にため息で返したのは、対魔特戦本部所属の第三位階対魔官、
綾香が毛嫌いしている本部の人間だが、彼は綾香の同期で、昔から親交がある。
三条支部以外で誰を頼るかという話になった時、真っ先に顔が浮かんだのが彼だった。
実際、
「俺もそんなに暇じゃないんだぞ」
「それでも来てくれるところ、好きよ」
「‥‥何馬鹿なこと言ってるんだ」
何よー珍しくリップサービスしてあげたのにー、と唇を尖らせる綾香に対し、是澤は唇を噛んでにやけそうになるのを耐えた。
是澤が綾香の信頼できる味方でいる理由はシンプルなのだが、それに綾香本人は気づかない。彼女は仕事とプライベートはきっちり分けるタイプだった。
是澤は気を取り直してヒトガタを見た。
向こうはまだこちらに気付いてない。ただ何をするでもなく、徘徊しているだけだ。
相手は強敵だ。
この有利を使い、確実に祓う。あるいは裏に術者がいるのであれば、正体を暴く。
「さて、行きましょうか」
「ああ、無茶はしないように」
是澤はそう言うと、屋根に手をついた。
彼の魔力が手を伝って根のように広がっていく。
木を操る彼の魔術は、攻撃性能が高いわけではない。どちらかといえばサポートよりの術式である。
しかもここはコンクリートジャングル。街路樹すらまともにないここでは、彼の本領は発揮できない。
そう、
都会では全力を出せない魔術師が、本部に登用されるはずがない。
あらかじめ各所に配置しておいた
「
琥珀が光を放つと同時に、爆発したかのように膨れ上がる。それは
ヒトガタはそれに気付いたのか後ろに逃げようとするが、そこにも腕は伸びている。
用意していた琥珀は一つだけではない。複数の巨木はヒトガタに絡みつき、縛り上げる。
鬼と戦った時はここで終わりだったが、あれから是澤も鍛錬を続けた。
もう二度と、あんな無様な姿を見せるわけにはいかない。
両手の指に挟むのは、手ずから作り上げた折り紙。
それをヒトガタに向けて
「『
紙でできたはずの
しかも紙切り蟲は一度では終わらない。途中で軌道を変え、ブーメランのように戻ってくると更にヒトガタに噛みつく。
ヒトガタは声を出すこともなく、身じろぎして拘束を脱しようとするが、紙切り蟲がそれを許さない。
それを見ながら、是澤の顔色は優れなかった。
「やはり、再生能力持ち‥‥」
ヒトガタはいくら切られても血を流すことも、痛がることもない。紙切り蟲がつけた傷も数秒で治ってしまい、致命傷には程遠い。
これまでの戦いの記録から、ヒトガタが再生能力を持っていることは予想できた。
いくら攻撃の手段を増やそうと、是澤ではヒトガタを倒すことは不可能だ。
そんなことは、分かり切っている。
「怪我するなよ‥‥」
そう呟きながら、是澤はヒトガタを拘束し続けた。
既に場は整えられた。
この樹々はただヒトガタを拘束するだけではない。
タンッ、とヒトガタの目前に綾香が降り立った。そして両の手首を合わせ、掌底を放った。
綾香が得意とする魔術は、『波動』。波を放ち、内部から敵を破壊する魔術だ。
綾香はそれをヒトガタではなく、ヒトガタを拘束する
手には魔力を込めた水。
波動と共に打たれた水はすぐさま木の中に浸透し、熱く脈打った。
五行思想における、
ヒトガタを縛る樹は力強く隆起し、姿を変える。
ただ絡みついていた枝葉は太く鋭くなり、黒い身体に食い込んだ。
「食いちぎりなさい。――『
波動を纏った樹の牙が、
行き場を失ったヒトガタの身体が
それを見て、綾香は息を吐いた。
不意を突いて、是澤と綾香ができる最大打点を叩き込む。作戦通りに事が運んだおかげで、倒すことができた。
再生能力を持っている以上、戦いを長引かせるのは得策ではなかった。
これだけの敵だ。術者がいれば、なんらかの痕跡が残るはず。あとはそこから探って行けばいい。
そう思った瞬間、ヒトガタと目が合った。
「は――?」
さっきまで消えていたはずの光が、再び
固まる綾香の前で、ヒトガタは上半身を
直後、暴風が生まれた。
人の頭ほどもある拳が、目にも止まらない速さで振るわれたのだ。
ほんの少し触れただけでも、綾香の頭は粉々に弾け飛ぶだろう。驚異の目視もままならい中で、綾香は明確な死のイメージを感じていた。
「加賀見!」
まさしく間一髪。
是澤が投げ入れた紙風船のようなクッションが綾香とヒトガタの間に割り込み、膨らむ。
ゴッ! と衝撃がクッションを貫いて綾香を叩いた。
そのまま吹き飛ばされた綾香を、是澤が抱きとめた。
「加賀見、大丈夫か⁉」
「‥‥なん、とか」
綾香は安定しない呼吸の中で、途切れ途切れに返した。
是澤の魔術と同時に、加賀見自身も波動を出して衝撃を相殺したのだ。
どちらが欠けても、致命傷になっていただろう。
ミシミシミシと音が響き、見ればヒトガタが邪魔な樹をへし折っているところだった。身体も完全な状態に再生し、ダメージが残っているようには見えなかった。
「これは、想像以上に厄介だな」
「とりあえず、私は、置いて‥‥逃げなさい」
「何馬鹿なこと言ってるんだ」
「殺されは、しないでしょ‥‥」
綾香は痛みに顔をしかめながら言った。
こうなっては、逃げる以外に道はない。
お荷物を一人背負っていては、是澤でも逃げ切れないだろう。ここはヒトガタは人を殺さないということに賭けて、綾香を置いていくのが最善だった。
しかし是澤は首を横に振った。
「それは断るよ」
「あんたねえ‥‥意地張ってる、場合じゃ」
「それに」
是澤はそう言って上を見上げた。
「援軍も来たみたいだ」
ヒトガタを頭から貫いた槍の上に、一人の女性が降り立った。
夜よりもなお黒い
伊澄月子は怒りを
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます