第400話 死神対悪魔 五

     ◇   ◇   ◇




 ノワの一撃は、セバスを縛っていた櫛名の魔術『不平等サイドコスト』を砕いた。魔力が桜の花となって散る。


 そしてシャーラによって魂を一刀両断にされたコーヴァは、その場で崩れ落ちた。


 肉体への攻撃は無意味。ならばあとは魂を攻撃する他ない。


 初代剣聖であるアグニが冥界で生み出した絶剣『起源断ち』は、相手の魂に直接ダメージを入れられる唯一無二の業だ。


 シャーラであっても、全神経を集中させ、冥界の剣『魂刈りリーパー』を使わなければ不可能な一撃だった。


 コーヴァの身体に外傷はない。ただ動くこともできない。


 体内を焼き尽くすような痛みの中で、己の魂が消えていくのを感じるだけだった。


「こ‥‥えが、聞こえ、なく‥‥」


 彼が最後に聞いたのは誰の声だったのか。それを知るすべはシャーラにはない。


 神の下に行くこともない、正真正銘の消滅。それでも悪魔から彼の魂を解放するには、これしかなかった。


 せめて安らかにと、そう思った瞬間だ。


 シャーラも、ノワも意図せぬことが起きた。


 コーヴァの身体から、黒が噴き出したのである。


 コーヴァ・リベルという宿主しゅくしゅを失った悪魔の暴走。まるで体内の血液が沸騰したかのような勢いで黒い触手が弾け、一番近くにいたシャーラへと迫った。


「――‼」


 剣を杖代わりに立つシャーラに、反応するだけの時間はなかった。


 そして、生温かい血が、彼女の顔を濡らした。


「‥‥ぁ」


 シャーラの前に、一人の男が立っていた。魔術を解かれたばかりのセバスが、シャーラをかばうように割り込んだのだ。


 シャーラの頬にかかった血は、彼のものだった。


「どう、して」


「最後くらい、何かお役に立たねば、メヴィア様に叱責しっせきされてしまいます」


 黒く大きな背中から、血濡れの刀身が生えていた。セバスは己の胸を双剣で刺し貫いていた。


 その血が、シャーラにかかったのだ。


「どうやら、この悪魔なるもの、人にりつくのでしょう。であればこのセバス、責任をもって共に冥界へと参りましょう」


「‥‥そんなことをしなくても、私たちが」


 シャーラは自分で言いながら、それが不可能なことに気付いていた。シャーラにもノワにも、もう戦うだけの力は残っていない。


 セバスが振り向き、いつもの笑みを浮かべた。


「良いのですシャーラ様、トアレ様。ありがとうございました。これで私の命も無為むいに使われずに済みます」


 セバスの身体の中で、悪魔が暴れた。肉体が不自然に隆起りゅうきし、その激しさを物語る。


 それでもセバスは表情を崩さなかった。しかしその目は、もうシャーラたちを見てはいなかった。


「メヴィア様、このセバス、貴方様より受けた多大なるご恩は決して忘れはいたしません。どうか、幸多き未来があらんことを」


 そして長きに渡って役目を全うしてきた聖女の守護者は、穏やかな表情のまま倒れた。


 そこにはもはや悪魔の気配はない。


 その時だった。


 何かを引きずるような重い音が地面を揺らした。


「扉が‥‥」


 振り返った先、固く閉ざされていた城門が、勝者の凱旋がいせんを待ちわびるように開かれていた。


 コーヴァの話であれば、あれを通り抜ければ次の場所に進むことができる。


 そしてそこにはきっと、勇輔がいる。


 それを見届けて、ノワの髪色が桜色から茶色へと変わった。


『陽向、私も、もう、限界』


「あ、ノワ! ちょっと、大丈夫⁉」


 当然身体の主導権を返された陽向は、危うくその場で膝を着きそうになった。


「何、これ‥‥」


 全身の血が鉛にでも変わったかのように重い。いくら息をしても呼吸が楽にならない。全力でマラソンをした時だって、こんなことにはならなかった。


 コーヴァをシャーラの間合いに入れるために、無理をしたのだ。


(でも、あの扉さえくぐれば、大丈夫。先輩たちがいるはず)


 震える膝にかつを入れ、歩き出そうとした時、ドサリと何かが倒れる音が聞こえた。


「‥‥え」


 振り返ると、石畳にシャーラが倒れていた。手の皮膚が裂けるまで握り続けた曲剣が、血の玉を残して転がっている。


「シャーラ、さん‥‥」


 声を掛けても、反応はない。


 嫌な予感がして、陽向はシャーラに歩み寄った。


「シャーラさん! シャーラさん、返事をしてください!」


 身体を揺り動かすと、真っ白な横顔が見えた。


 うっすらと開かれた赤い瞳が、どことも知れぬ場所を見ていた。


「シャーラさん!」


「‥‥ごめん、もう、動けない」


「動けないって、そんな」


 慌てて脈を取ろうと手を持ち上げて、陽向は愕然とした。


 その手は氷に触れたように冷たかった。


 命が薄れ、消えていく感覚。


 今まで経験したことのない恐怖が、実感を伴って首を絞める。


 その息苦しさから逃れるように、陽向はシャーラの腕を自分の肩に回し、強引に彼女を起こす。


「何、して‥‥」


「他の人なら、何とかしてくれるかもしれません! だからもう少しだけ、頑張ってください!」


 たった人一人分。


 普段なら陽向でも運べるだけの重量が、今はひたすらに重い。歩みは鈍く、少しでも気を抜けば二人とも倒れそうになる。


 目の前に扉があるのだ。


 もう、目の前なのに。


「遠い――」


 あとどれだけかかるのだろう。


 そんな二人を急かすように、周囲の空間が淡く光を放ち始めた。


「え、何。どうして、何なの!」


「‥‥空間が、崩壊しようとしている。早く扉に行かないと、手遅れになる」


「そんなっ――⁉」


 あとどれだけ時間が残されているのだろう。


 街並みは分解され、光となって空に上がっていく。歩いている道が、狭くなっていく。


 なのに扉は、遠いままだ。


「行って」


 耳元でシャーラの声が聞こえた。


「私は、いい。行って」


「そんな、そんなことできません!」


 一緒に戦ったのだ。同じ家で暮らし、同じ人を好きになって、そんな人を見捨てていくなんてできない。


 それでも残酷な現実は揺るがない。


 陽向の脚では、扉には届かない。


「ノワ! ノワ起きて! 聞こえてないの⁉ 起きてよノワ‼」


 自分の中で眠るノワに叫ぶが、それも無意味だった。彼女も既に限界を超えている。


「私は、どちらにせよ、もう、助からない。だから、行って」


「嫌です‼」


 駄々っ子がそうするように、陽向は涙ながらに言った。


 だからシャーラは、言葉を変えた。


「ユースケに、会いたいんでしょう」


「――それは」


「行って。私は、もうたくさんもらったから」


 そうだ。


 二度と会えないと思っていた勇輔と会い、少しの間だけれど、穏やかな日々を共に過ごすことができた。


 それ以上、シャーラが望むものなんてない。


 足を止めた陽向が、唇を噛み、涙をぬぐい、言った。


「分かり、ました」


「そう。それでいい」


 陽向がゆっくりとシャーラを地面に下ろす。


 お互いに、これでいいのだと言い聞かせながら。


 陽向がシャーラの顔にかかった髪を優しく払う。


「最後に、何か伝えておきたい言葉はありますか?」


 それは彼女なりの優しさだったのだろう。


 言葉。


 言葉。


 思い。


 想い。


 自分が、最後に、伝えたいこと。


 あの人に、届けたかった願い。


「――ユースケ」


 真っ赤な目から、涙があふれた。それはとめどなく流れ、石畳を黒く染める。


「私は」


 思い出すのは、彼の顔。


 彼の表情。


 彼の声。


 彼の視線。


「私はっ」


 そしてその先にいつもいる、緋色の少女。


「一度でいい」


 そう、たったの一度だけでいいから。




「あなたの、一番になりたかった――」




 ボロボロと涙と共にこぼした言葉は、偽らざるシャーラの本音だった。


 長い時を生きて、魔王とさえ戦った英雄が、嗚咽おえつらし、泣いていた。


 二番目でいいはずがない。


 誰だって、誰かの一番になりたい。


 実はほんの少し、期待していた。


 この地球で最初に再会するのが自分なら、あなたの一番になれるんじゃないかって。


 それでもその瞳の中には、別の人がいて。


 自分が恋した視線の先に、自分は立てないんだって思い知らされて。


 泣く以外に、できることなんてなかった。


「シャーラさん‥‥」


 小さな子供のように泣きじゃくるシャーラを見て、扉を見て、陽向は何かを考えた。


 考えて、ゆっくりと彼女の隣に腰を下ろした。


「何を、して」


「よく考えたんですけど、私ももう疲れましたし、一歩も歩けないですし、ここで待ってたら、きっとまた先輩が助けに来てくれると思うんですよね」


「そんな、馬鹿な事――、行って!」


「行きません」


 陽向はきっぱりと断ると、倒れるシャーラの身体に覆いかぶさるように、抱きしめた。


 冷たくなっていく身体を温めるように。


 自分にとって一番の人に、一番に見てもらえない苦しさは、陽向もよく知っている。


 それを聞いてしまったら、もう放っておくことはできなかった。


 ――ごめんね、ノワ。


 そう心の中で呟いて、陽向は目を閉じた。




「一人は、寂しいですから」




 二人を優しく包み込むように、世界は光に満ちる。


 それはやがて誰も通らなかった扉も飲み込み、そして、消えた。

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