第108話 平穏の崩壊
「おいおい、嘘でしょ」
勇輔たちが戦いの終わりに安堵している中、クーラーの利いた部屋で男は呟いた。思わず机を蹴り上げ、置いていたコーヒーを零しそうになる。
突然目が潰された。
状況を把握するために飛ばしていた式神が壊されたのだ。
何が起こったのか頭の中で思い返しても、意味が分からなかった。
一通り事が終わり、場所を移そうと意識を逸らした瞬間、何者かにやられたのだ。では誰に?
そういう式神を使っていたのだから、当たり前だ。
この日本で自分の式神の隠行に気付ける人間がどれ程いるだろうか。
月子たちの戦いを遠い場所で覗き見ていた男は、落ち着きを取り戻そうとコーヒーを飲みながら思案する。
誰がやったのかは分からない。
間違いなくこちらの意識の隙を狙い、予兆すら感じさせぬ一撃の元に破壊した。
「‥‥」
思わず口角が吊り上がった。
それはどれ程の使い手か。あの場にいた対魔官では無理。となると考えられるのは第三勢力。まさか
あるいは、
「君かい?」
鬼の戦いに突如割って入った青年。チラリと報告書で顔を見た覚えがある。神魔大戦に不運にも巻き込まれてしまった運のない大学生。
あの動きを見れば、それがただの偶然でないことが分かる。報告書に載っていた名前を記憶の底から引っ張り出す。
「山本勇輔、だったかな」
これはまた調べなければいけない人間ができた。
果たして敵か味方か。あのお方の目に留まるような実力なら、早めに接触しておいた方がいいかも
しれない。
あの社を見つけること、またその封印を解くのには相当な労力がかかったが、それに見合うだけの大きな成果が得られた。
当初の目的だった伊澄月子の実力の調査。山本勇輔という不確定因子。霊体とはいえ魔族を実際に見られたのも大きい。
「さあ、君たちはこのうねりに飲み込まれるだけか、それとも流れを変える一投になるか。楽しみだね」
そこは対魔特戦本部の一室。飲み終わったコーヒーの紙コップを持ち上げ、彼はいつも通り怪しい笑みを浮かべた。
第一位階、土御門晴凛。
最強の男がそこにいることに気付く者は、誰もいなかった。
◇ ◇ ◇
月子たちからきちんとした手当てを受け、着替えた俺は電車に乗って東京に帰っていた。
既に日は落ちて窓の外から見える景色は暗く、車内は
誰も彼もが音を立てるのが罪であるかのように静まり、走る音だけが響く。
月子もその上司である是澤さんも、今日一日ゆっくりと休んで明日帰ればいいと言ってくれたが、今は月子の傍にいるのが辛かった。
何より俺を快く送り出してくれたリーシャとカナミに一刻も早く会いたかった。
一人になればなるほど思い出すのは、最後に月子から言われた言葉だ。
傷ついてほしくない。
俺の考えが間違ってなければ、俺を危険に巻き込まないために別れたってことだろう。月子は対魔官だから。
一つの可能性として、もしエリスも同じ考えだったとしたら。
勇者だった俺を、もう戦わせまいと突き放したのだとしたら。俺の感じていた違和感に辻褄が合ってしまう。
本当かどうかは分からない。俺の見当違いな妄想の可能性って方が高い。
だが、どうしても思わずにはいられなかった。
「‥‥勝手だな、どいつもこいつも」
――この世界は危機に瀕しているのだ。どうか、勇者として魔王と戦ってはくれまいか。
――俺の思いを継いでほしい。
――私たちの命を、宿願を貴方に託します。
――なに、まるで化け物じゃない。
――あれの力は強大過ぎる。魔王亡き今、どう手綱を握るべきか。
――恨み言を言うつもりはない。だが息子の仇は討たせてもらおう。
――殺さないで。
――殺せ。
――死ね。死ね。死ね。
――もう傷ついて欲しくないの。
――戦え、戦え、戦え。
――あなたは邪魔な存在なの。
耳の中にこびりついて響き続ける声。
その中に俺の意志が、声があっただろうか。今では鎧の下にいたのは、本当に俺だったのかさえ疑
問に思う。
誓いとは、呪いだ。
逃げ道を塞ぎ、行動を縛り、意志を一つにする強固で美しい呪い。
だとすればあの鎧を動かしていたのは、勇者という名の呪いだった。そこに山本勇輔なんて人間は存在しなかったのだろう。
いや、やめよう。
考えるべきは他にもたくさんある。どうして孝臣が俺の勇者の名を知っていたのか。次に戦う魔術はどんな者になるのか。
俺は思考という暗闇の中に逃避した。
だから気付かなかった。携帯にずっと加賀見さんから連絡が来ていたことに。
◇ ◇ ◇
駅に着くと同時、俺は待機していた対魔官に有無を言わさず捕まり、ある場所に連れていかれた。状況は実際に見てもらった方が早いだろうと。
乗せられた車の中で、現実感のない街頭の光が等間隔に過ぎ去っていく。
到着したそこはどこかの施設の地下だった。
どうやら対魔官の人たちが使う病院のような場所らしく。白衣を着た人たちが慌ただしく歩いている。
誰も彼もが俺と目を合わせようとしない。何か口にするのを
嫌な予感が死神のように俺の心臓を握る。
その部屋が見えた瞬間、俺は前を歩く対魔官の肩を掴んでいた。
どけ、頼む、どいてくれ。
対魔官を押しのけると、暗い廊下の向こう側、光の下に彼女はいた。
純白のベッドの上に血のように菫色の髪が広がり、白い肌は病的なまでに薄くなっている。普段の高貴で芯の通った面影は失せ、今はただただ消えてなくなりそうな
現実味がなくて、崩れそうになる身体を手を着いて支える。
今朝、話したばかりだったのだ。
いつもの
誰だ?
誰がこんなことをした。
目の奥で
「‥‥‼」
歯を食いしばり、暴れようとする魔力を全力で封じ込める。
馬鹿が、過ちを重ねるな。
俺は震えそうになる声を抑えて、背後に近付いてきた人に聞いた。
「‥‥何があったんですか?」
すこし間が空いて、後ろに来ていた加賀見さんは、硬い声で答えた。
「正直私たちも詳しいことは分かってないの。夕方くらいに魔族から襲撃を受けたみたいで、私たちが着いた時には全部終わってたから。カナミさんは両腕粉砕骨折に加えて、内臓の一部も潰れている危険な状態よ。こちらで出来る限りの手は尽くしたけれど、はっきり言って、どちらに転んでもおかしくない」
「どちらって――」
淡々とした加賀見さんの言葉に声が荒振りそうになった。本当はそんなこと聞かなくたって分かる。生きるか、死ぬか。カナミは今その瀬戸際にいるのだ。
叫び出したいような情動を、拳を握って耐える。
そして加賀見さんはそのまま言い辛そうに続けた。ここにはいない彼女のことを。
「そして、リーシャさんは行方不明よ。今は
「そう、ですか」
それはきっとカナミが俺を思って言った嘘だろう。白銀はリーシャの傍にいることになっているのだから。
まさかその正体が一人離れて月子たちの下に行っているとは思わない。
「大丈夫? 勇輔くん」
加賀見さんの声が遠い。
カナミは重篤な傷を負い、リーシャは捕らえられた。状況は最悪だ。
一度深呼吸をして暴れる心臓を抑え込む。狼狽えている場合か、止まっていては何も解決しない。
俺は背後を振り返って加賀見さんの顔を見た。
彼女も酷く憔悴した顔で、俺を見つめていた。
「大丈夫です。少しカナミと話したいんですが、入れませんか?」
「入っても話せる状態ではないわよ」
「いいんです、よろしくお願いします」
俺は部屋に入るための準備を整えると、加賀見さんの後に続いて部屋に入る。
中は静かな死の空気に満ちていて、目を背けたくなる現実が鎮座していた。
呼吸を整え、カナミの顔の近くに寄る。
「っ」
直後、驚くべきことにカナミの瞼が薄っすらと開いた。意識を保つことさえ苦しいはずなのに、酸素マスクの下で小さく口が動く。
――そうか。
俺はカナミの頭を撫でた。こうしていると、俺よりずっと年下の少女なんだと実感する。サラサラとした髪の中から、加賀見さんに見られないように小さな魔道具を取り出した。
カナミならきっと何らかの形で手がかりを残してくれていると思った。これは彼女が命を賭して俺に繋いだもの。
選択を間違えた。
俺の我が儘のせいで二人を危険に晒した。
そっと包帯の隙間から出ているカナミの指先に触れる。儚くも、途方もない鍛錬を知る手だ。
その小指に俺は小指を当てた。誓いだろうが呪いだろうが構わない。約束しよう。
「後は俺に任せて、ゆっくり休んでくれ」
するとカナミは俺の目を見つめ、それから静かに目を閉じた。
彼女が殺されなかったこと、魔道具を残していること。そしてリーシャの行方が分からないということ。
恐らく殺されたわけじゃない。何らかの理由で捕らえられているはずだ。
待っててくれリーシャ、何があっても助け出す。
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