第77話 コンボ
夏の伊豆には魔物が住んでいる。
心まで透ける鮮烈な日差し、
魔物はふわふわと俺たちの周囲を勝手気ままに跳ね回り、心の奥底を
まるで気球のように、熱せられた気分に浮かされて身体が軽くなる。
今にもあの砂浜に駆け出し、その熱さを全力で感じたい。海に飛び込み、突き抜けるような清涼感に身をゆだねたい。
この場所でなら、普段は話しかけることすら尻込むあの子を遊びに誘うことさえ可能だ。
そんな抗いがたい魔力を秘めた夏の魔物。
今頃若者たちは我が世とばかりに、めくるめく夏のロマンスを謳歌していることだろう。
まったくもってはれんち極まりない。リーシャが見れば伝家の宝刀「ふしだらです!」が即時抜刀されること請け合いだ。
俺だってできることなら夏の魔物にたぶらかされてしまいたい。
夏の暑さを思う存分満喫し、水着のお姉さんを眺めながら海水の塩辛さをビールで洗い流したい。
そうきっと、皆がそう思っている。
しかし現実は非情である。
俺たちは夏の魔物に手招きされる中、海にも山にも行けず合宿所の一室に監禁されていた。
一文字一文字、誤字脱字がないように丁寧にチェックしながら読むのは、普通に読書を楽しむのとは違い、凄まじい速度で疲労が溜まっていく。
額が熱くなり、こめかみと目の周りがジクジクと痛い。
楽しい電車旅が終わり、合宿所となる旅館に着いた俺たちを待っていたのは、地獄の読み合わせだった。
いや、元々そのために来たんだけど、何回やっても辛いんだよな、これ。
文章量自体は大したことないので、軽く読むだけならすぐ読み終わるのだけど、俺たちがやっているのは読み合わせ。誤字脱字の添削だけに留まらず、ストーリー構成や表現の改善など、やることは山ほどあるのだ。
傍らには日本語辞典と電子辞書を置き、気になる文章には付箋を貼ってメモしておく。
「あー、疲れたよもー!」
突然大声を上げて、松田が後ろに倒れ込んだ。
駄々をこねる子供のように両手を振り回し、畳へ八つ当たりする様は見ていてなんとも言えない気分になる。
「おい松田、ちゃんと読み合わせしないと会長に後でドヤされるぞ」
「そういう勇輔だってさっきから目流れてるじゃん。あと五分もしたら寝るね、絶対」
「そ、そんなことはない」
たぶん。
すると総司も原稿を置き、大きく伸びをした。
「まあ休憩には丁度いいころ合いじゃねーか?」
「そうですね、お茶でもいれましょうか」
総司の言葉に続いて陽向が立ち上がる。そういう気の利くところ流石だと思います。
今この部屋にいるのは、電車旅をしてきた面子だけだ。
昔は全員の作品を読み合わせていたそうだけど、時間ばかりかかってクオリティが下がる上に、サークルメンバーからの苦情が多発したことから、現在はチームを組んでの読み合わせと相成っている。
「黒井さんも疲れたでしょ、暫く休んでていいよ」
我が混沌たるメンバーに放り込まれた黒井さんはにこやかに笑いながら、「ではお言葉に甘えて」と脚を崩した。
いや、むしろ今まで正座で読み合わせしてたの?
さて俺も固まった脚を伸ばし、後ろに倒れ込みながら伸びをする。うーん、この瞬間がめっちゃ気持ちいい。
かといって眼精疲労が取れるはずもなく、頭の重さは変わらずだ。無意識のうちにぐにぐにと前頭部を揉んでいると、顔に影がかかった。
「ユースケさん、頭が痛いのですか?」
「ん? ああ、痛いっていうより重いかな。目の使い過ぎ」
俺の頭の上に立っているのはリーシャだった。彼女は読み合わせには参加していないので、お祈りをしたり漫画や本を読んだりして過ごしていたはずだ。
ちなみにカナミは今ここにおらず、旅館周辺の地形を確認してくると言って出ていった。
こんなところにまで魔族が現れることはないと思うが、守護者としては確認せずにいられないのだろう。
そんなわけでリーシャだけ置いてけぼりだったわけだが、彼女はパアっと顔を輝かせた。
「それなら私が揉みましょうか?」
「いや別にそこまでじゃ」
言い終わるよりも早くリーシャの指が髪をかき分けて頭を掴んだ。使い過ぎて熱のこもった頭に、エアコンで冷えた指先が心地よかった。
何やってんのこの子。
「あ、お客様こってますね。強さはどうですか?」
「だ、大丈夫です」
やけに楽しそうにマッサージしてくれるリーシャを止めることもできず、為すがままになってしまう。
前々から俺が筋肉痛になった時とかはマッサージしてくれてたけど、最近はそれが楽しくなってきたのか、動画やテレビで勉強しているらしい。
マッサージ師なんだか美容師なんだか分からない言葉もその辺から覚えたんだろう。
リーシャは女性にしては力がある、というかアステリスの人って全体的に地球の人より身体能力高いんだよな。教会で蝶よ花よと育てられたリーシャがそれなんだから、遺伝的な問題なんだろうけど、おかげでマッサージも普通に気持ちいい。
「‥‥何やってるんですか、先輩」
そんなことを考えながらリーシャのマッサージを堪能していると、底冷えする声と共に、冷ややかな視線が突き立てられた。
ポットでお茶を淹れてくれていた陽向が俺を見下ろしていた。
その手には熱いお茶が入っているであろう湯呑。何だろう、嫌な予感がする。
「いや待て陽向、これは決してふしだらな気持ちがあるわけではなく、むしろこの健全なマッサージを見てそういう想像をするほうがはれんち‥‥待て、落ち着け陽向。その湯呑薄くて熱いやつだろ落ち着けまいやぁぁぁぁああああ!」
必死の抗弁も振るわず、熱いお茶がたぷたぷに入った湯呑が俺の額に置かれた。
徐々に熱が伝わってくるんだけど、これマジで熱いやつじゃん!
「あ、ユースケさん私動画で見ましたよ! あっためると血流がよくなるんですよね!」
馬鹿待てリーシャ、一回マッサージ止めろ。揺れる、揺れるから。お茶零れるからちょっとぁぁあああああ!
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