歪み至る紅衣
第111話 旅の終わり
初めての旅行というものは、あらゆるものが新鮮で、目に映る何もかも輝いて見えた。
窓から差し込む斜陽が、影を合間に挟みながら揺れ動く。
帰りの電車の中は心地よい疲労感と、終わってしまうという寂寥感がない交ぜになった、やはり感じたことのない気持ちがした。
リーシャはこの世界の人間ではない。
アステリスと呼ばれる世界で、女神聖教会に所属する聖女である。
魔を祓い人を救済するために、神より選ばれた神聖にして清廉なる巫女。
本来なら女神への祈祷と人々の救済に一生を献ずる身であったが、第二次神魔大戦が始まったことにより、『鍵』としてこの地にやってきたのだ。
形こそ違えど、種族の威信と盛衰、そして信仰を懸けた戦争。
こんな呑気に旅行なんてしていられるはずではなかった。
しかしとある人が様々手を回してくれたおかげで、リーシャはこうして初めての経験がたくさんできた。
きっと今感じる寂しさは、その人がいないからだ。
「ユースケさん、大丈夫でしょうか」
流れ行く景色をぼんやりと眺めながら、思わず呟きが漏れた。
山本勇輔は、リーシャが地球で会った魔術師だ。なんでもアステリスから地球に漂着した魔術師の血筋らしく、その戦闘力は凄まじいの一言に尽きる。
彼もリーシャたちと共に帰るはずだったのだが、また別の戦いに行かねばならないということで、ここにはいない。
リーシャのそんな独り言に応える声があった。
「心配せずとも、ユースケ様なら何も問題ありませんわ」
「そ、そうですよね」
「優秀な戦士であれば様々な戦場に
「勿論です。ユースケさんがいなくても戦ってみせます」
ふんす、と小さな拳を握るリーシャをカナミは優しい目で見つめた。
菫色の髪に濃紺の瞳。彫り深く整った顔立ちは、穏やかながらも年に似合わぬ貫禄と覇気に満ちていた。
彼女の名はカナミ・レントーア・シス・ファドル。ファドル皇国の皇女にしてリーシャの守護者。
歳はリーシャと同じ十六歳でありながら、重ねてきた経験は比べものにならない。十二で初めての戦場を経験し、そこから死に物狂いで戦士として鍛錬してきた。本来ならば筆と茶器を手に何不自由なく生きていける立場でありながら、武骨な銃を握る道を選んだ。
カナミもまたここにはいない勇輔を思い出しながら座席に身体を預ける。
最近は彼がいることが当たり前になっていた。神魔大戦が始まった頃は一人でリーシャを守ってきたというのに、今はいないことがあまりに心細い。
これは弱さだ。
心のどこかでそう思いながら、しかしカナミはそれを認めるわけにはいかなかった。勇輔が近くにいるせいで弱くなったなど、あり得ない。
外は徐々に色を失い、魔の時間が訪れる。二人の思いを乗せて電車はひた走った。戦いのその場へと。
◇ ◇ ◇
電車から降りると、生暖かい都市部の風が文芸部の面々を包んだ。
「あ~帰って来ちゃったねえ」
大きく伸びをしながらそうぼやくのは、
「終わってみると意外と短かったな」
松田の声に応えるのは、
二人以外の文芸部も思い思いに合宿を惜しみながら友人と喋っている。
「勇輔も最後までいれればよかったのにね」
「用事ができたんじゃしょうがないだろ。あいつに急用なんて珍しいけど」
「リーシャちゃんたちも置いていくなんて何があったんだろう」
不思議そうに言う松田は
「もしかして、女性関係だったりする?」
「‥‥いや、そりゃねえだろ。多分」
松田の視線の先にいるのは、明るい雰囲気の小洒落た少女だった。
二人の後輩にあたる
後輩の様子がおかしくなくなる要因は、二人とも一つしか思い浮かばない。
松田は顎を撫でつつぼやく。
「僕はてっきり勇輔が陽向ちゃんに手を出したのかと思ったんだけど」
「何かしらあったとは思うが。むしろお前はなんか知らねーのかよ」
「昨日色々情報収集はしたよ。高山が陽向ちゃんに告白して振られたり、ナンパ男に絡まれたところを勇輔が助けたり。まあ色々あったみたい」
「いや、それ異変のほぼ全てだろ」
昨日お前べろべろに酔ってたのに、どこでそんなことしてたんだよ、と呆れる総司。
そんな総司に松田は肩を竦めた。
「分かってないなあ総司は。世の中事実が全てじゃないんだよ。その時の当人たちの気持ちが一番大切なんじゃないかいだだだだだ!」
したり顔で語る松田にアイアンクローをかましながら、総司は横を向いた。
「それで、リーシャたちも帰るんだろ。送ってこうか?」
まだまだ夜というには明るい時間帯だが、勇輔もいない目立つ少女二人。おかしなことをしようとする人間がいてもおかしくはない。
しかしカナミは首を横に振った。
「お気遣いありがとうございますわ。けれど大丈夫です。駅からはそう遠くありませんし、皆様も疲れているでしょうから」
「本当に大丈夫か?」
「いたた、僕たちなら全然問題ないよ?」
「本当に大丈夫です、松田さん。ユースケさんがいなくても家に帰るくらいはできます」
総司は暫く考える素振りを見せ、頷いた。
「そうか、気を付けろよ」
「リーシャちゃんがそう言うなら‥‥」
二人と別れ、リーシャとカナミは家に向けて歩き始めた。
夕暮れを影が二つ、並んで進む。
カナミの言葉通り家までは近く、旅行のお土産や荷物を持っていても大して時間はかからなかった。
リーシャはぼんやりと勇輔が帰ってきたらどんな話をしようかと考え、カナミは周囲の警戒をしながら今日の夕飯をどうするか考えていた。
ここ最近で慣れ親しんだ道のり。
よく知っている場所であればある程、そこに安心感があればある程、異物が紛れ込んだ時の違和感は強く、そして
眼が魔力を喰らう。
カナミの左眼に埋め込まれた古代の魔道具『シャイカの眼』が、突如これまでにない挙動を示した。
「リーシャ、下がりなさい!」
鋭い一声を飛ばしながら、カナミは即座に荷物を捨てて後ろを振り返った。
張り詰めた緊張感が全身を硬くし、魔力は火が付いたように走り出す。
橙色の光の向こう、長く伸びた影を踏むように、一人の男が立っていた。
『よう、戦争の最中に随分楽しそうじゃねーの』
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