第351話 理想通りにはいかない再会

     ◇   ◇   ◇




 俺、山本勇輔は魔王と戦った時、緊張と昂揚で身体が震えていた。


 魔族や魔将ロード、それ以外の敵とも戦ってきた。それでもなお、人生でこれを超える者は存在しないだろうと直感したものだ。


 しかし俺は今、その時に匹敵するほどの緊張感を覚えている。


 冷静に自分の状況を確認しよう。


 震える身体を筋力で強引に抑え込んだ結果、全身が銅像のように固まっている。体温は明らかに高く、手汗がぐっしょりとスーツを濡らす。


 身体は熱いのに頭まで血が回らず、視界が揺れる。


 間違いなく挙動不審きょどうふしんだ。


 むしろ失神せず、ここに座っているだけ自分を褒めてやりたい。


 それも仕方ないだろう。




 何せ今俺の目の前にいるのは、エリス・フィルン・セントライズなのだから。




 あのエリス・フィルン・セントライズだ。


 アステリスで別れ、二度と会うことはないと諦めた女性だ。


 ずっと会いたいと。顔を見るだけでよいと、願っていた人だ。


 それがどういう奇跡か、俺の対面に座っているのだ。


 緊張もする。しないわけがない。もはや緊張という言葉を超え、臨界と表現しても良いほどだ。中二心くすぐられちゃう。


 というかこれは現実だよな。綾香さんがこの場を設けてくれるまで、あの『東京クライシス』の日にエリスと会ったことは夢だったんじゃないかとさえ思っていた。


 ただまあ、現実なんだろう。


 月子に振られ、酒に逃げて悪態を吐いていたあの時から、リーシャと出会い、カナミに倒れられ、メヴィアに救われ、シャーラと再会し、コウガルゥと戦場を共にした。


 その果てに、今こうしてエリスが俺の前に座っている。


 ――ふぅ、そろそろ覚悟を決めよう。


 客観的に自分の状態も確認できた。これ以上現実逃避をするわけにはいかない。


 俺は半分幽体離脱していた身体の中に入り、わざとぼやかしていたピントを合わせる。


 そこには、エリスが座っていた。


 当然だ。彼女は一度も動いていない。


 なんなら俺がこの部屋に入った時から、まったく変わらない姿勢で座り続けている。


 見た目も相まって人形が座っているようにさえ見える。


 燃えるような緋色の髪に、どこまでも吸い込まれていきそうな深緑の瞳は、俺が知っているあの時と何ら変わりない。


 その顔立ちは俺が知るものよりも大人びているが、まったく違和感というものを感じなかった。アステリスに居た時から、きっとこんな風に成長するんだろうなという予想通り、あるいはそれを易々やすやすと超える成長具合である。


 ――やばい、また意識が遠のいてきた。


 さっきからこれの繰り返しだ。エリスを見ただけで俺のぽんこつな頭はショートし、強制シャットダウンを実行しようとする。


 身体の頑丈さには自信があったのだが、そんなものはとっくに砕け散っていた。


 それでもここで倒れるわけにはいかない。


 時間は有限なんだ。


 こうしている今も、いつ新世界トライオーダーや魔族との戦いが始まるか分からない。


 人は死ぬ。そうでなくとも、別れは突然やってくる。


 あの時話しておけばよかったと、伝えておけばよかったと後悔したことが何度あったことか。


 アステリスを離れた日から、この時をどれだけ夢見てきたと思っているんだ。


 しっかりしろ。


 エリスの目を見ろ。


 俺がずっと彼女に伝えたかったことが、あるはずだろ。


 俺は奥歯を噛み締めて、エリスの目を真っ直ぐに見た。


 そして、数年ぶりにその名を呼んだ。


「エリス──」

 



     ◇   ◇   ◇




 夢だと思っていた。


 つい最近まで、自分が今いる世界は夢の中で、身体は動いていても、心は現実感から乖離し、ふわふわと宙を浮いている気分だった。


 それもそうだろう。


 何せエリス・フィルン・セントライズがいるこの場所は、自らが生まれ育ったセントライズ王国でも、ましてアステリスですらない。


 異世界の地球なのだ。


 それだけでも現実味がないというのに、エリスの意識を浮遊させている原因は別にあった。


 目の前に座る青年だ。


 故郷で見る男性たちとは違い、身体の線が細く、顔立ちも薄い。髪も目も炭で塗ったような黒で、どこをとっても異国情緒にあふれている。異国どころか、異世界なのだから当然なのだが。


 格好いいかと言われれば、人によるだろう。不細工とまではいわないが、美形だとはお世辞にも言い辛い。その程度である。


 一国の王女であるエリスは、より見目の良い男をいくらでも見てきた。


 それこそ現在セントライズ王国で勇者の扱いを受けているジャック・ダスケンは眉目秀麗びもくしゅうれい美丈夫びじょうふで、もし道歩く人にこの青年とジャックのどちらが良い男かと聞けば、十人中九人がジャックだと答えるだろう。


 それが彼、山本勇輔なのだ。


 そして十人の内、彼を挙げる一人がエリスだった。


 ジャックよりも、どんな男たちよりも、目の前の山本勇輔が格好良いと言い切れる。


 元勇者としての功績とか、優しくて信念のある内面とか、意外とメンタルが弱いところとか、そういった何もかもが愛おしいと思えるが、それとは別に、見た目も好きだ。

 

 まだ少年と青年の境にいた頃とは違う。大人びて、落ち着きと余裕を感じさせる顔立ちは、あの時よりも更に格好良くなっていた。


「‥‥」


 無言のまま、エリスは身じろぎ一つせず座っていた。


 分かっているのだ。言うべきことは数えきれないほどある。エリスが勇輔にした仕打ちを考えれば、このように対面に座ることさえ許されない。地べたに這いつくばり、頭を床にこすりつけて迎えるべきだった。


 しかしそれはこの場を設けてくれた加賀見綾香に止められた。


 勇輔はそんな再会は望んでいないはずだと。


 だからこうして座って待っていたのだが、予想外のことが起きた。


 久しぶりに会った勇輔が想像以上に格好良かっこうよくなりすぎていて、言わんとしていたことが全て空の彼方に飛んで行ってしまったのだ。


 それでも何とか口を開こうと努力しているのだが、ほんの少しでも動いてしまったら、心に溜まっていた何もかもがそれをきっかけに決壊して、あふれ出してしまう予感があった。


 すでにこの間、街の中で会った時に涙を流してしまったのだ。

 あれはエリス・フィルン・セントライズにとって一生の不覚だった。


 エリスは泣いていい立場ではない。勇輔を傷つけた側なのだから、みっともなく自分の感情をさらけ出すなんて、許されるはずがない。


 しかし、我慢できなかった。


 自分でも分からないうちに、感情の上澄みが大粒の涙となってぼろぼろとこぼれて、とめられなかった。


 勇輔に抱きしめられた時、身体の感触と、熱さと、匂いに、何もかもが真っ白になって、小さな子供のように声を上げて泣いてしまった。


 あんな経験は、物心ついたころから覚えがない。


 嬉しくて、恥ずかしくて、申し訳なくて、結局その場からはすぐに立ち去ってしまった。


 あのまま勇輔のところにいてしまえば、彼の優しさに甘えてしまうと思ったから。


 そして時間を置けば、いつも通りの自分として、言うべきことをきちんと伝えられると思っていた。


 その結果がこれだ。


 一言でも発せば、それと同時に感情が波濤はとうとなって頬を濡らすだろう。


 そうなったら目も当てられない。


 自分が悪いのに、涙を流しながら謝罪をするなんて、そんな恥知らずな真似をすることを、エリス自身が許せなかった。


 女の涙は武器になる。各国の狡猾こうかつな古狸たちを相手に社交の戦場で戦ってきたエリスはそれをよく知っていた。


 だからこそ、勇輔にそれを見せたくなかった。きっと彼は、泣く自分を許してしまうから。


 なけなしのくだらないプライドだ。


 そんなことは分かっている。けれどそんなプライドにしがみつかなければ、エリスはこの場に座っていられないのだ。


 どれ程の時間が経っただろうか。


 お互いに一言も喋らないまま、運ばれた紅茶がゆっくりと冷たくなっていく。


 そして歴戦の戦士であるエリスは、そんな極限状態の中でも事の起こりを見逃さなかった。


 勇輔が覚悟を決めた目でエリスを見たのだ。


 その視線を受けただけで、心臓は破裂寸前まで荒々しく鼓動し、魔力が暴れ出しそうになる。


 長き時を経て、勇輔は口を開いた。


「エリス――」


 その声を聞いた瞬間、エリスの意識は完全にブラックアウトした。

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