第352話 俺にとって 私にとって

   ◇ ◇ ◇




「エリス──」


 清水寺どころか、スカイツリーの頂上から飛び降りる気持ちで口を開いた俺は、そこで違和感に気づいた。


 エリスからのレスポンスが一切無いのだ。


 まだ名前を呼んだだけなのだから、そりゃ大きな反応があるとは思っていないが、それにしたって無反応すぎる。頷くどころか、視線すら微動だにせず、俺を見続けている。


 どうしたんだ、あまりにも反応がなさすぎて、怒っているのか悲しんでいるのか、喜んでいるのか分からん。


 いや、流石に怒られる理由はない、はずだ。多分。おそらく。メイビー。


 過去に意図せずエリスを怒らせまくってきたので、あまり自信がない。


 思い当たる節があるとすれば、あれかなあ。やっぱり出会い頭に抱きしめてしまったのはまずかったかもしれない。エリスは一国の王女である。本来、そうそう気軽に触れ合っていい相手ではないのだ。


 昔から手が軽く触れただけでも怒られたものだ。


 しかも今の俺は勇者という肩書きすらない、完全な一般人である。


 アステリスで俺がエリスと一緒にいられたのは、勇者だったからだ。その地位を失った今、俺が彼女の前に座っていられる道理はない。社交界で一層輝くエリスを見て、何度も落ち込んだっけな。


 生まれも、育ちも、俺とエリスでは文字通り、世界が違いすぎる。


 それでも、ここで背を向けて逃げ出すわけにはいかないんだよ。


 こうして再び会えたことが奇跡なんだ。


 一分一秒たりとも、無駄にはできない。


「エリス」


「────はっ」


 再び声をかけると、エリスから鋭い呼吸音が聞こえた。


 視線が揺れ動き、あからさまに身体がソワソワとし出す。


 な、なんだ。なんかさっきと反応が違うな。もしかして一回目は聞こえてなかったとか。緊張しすぎてたし、声が出てなかったのかもしれない。


 乾く喉をうるおす余裕もなく、俺は言葉を続けた。


「会えて、嬉しい」


 たった二言。


 その二言を発するために、俺は凄まじい体力を要した。声はみっともなく震えているし、とてもスムーズとは言えない片言の話し方だ。


 きっと自分でこれを聞いたら、笑ってしまうだろう。それくらい、ひどいものだった。


 それをエリスは笑うことなく聞いていた。


 そして、ゆっくりと口を開く。


「私も──嬉しいわ」


 エリスの声は、当時となんら変わっていなかった。


 芯のある、暖かさに満ちた声。


 その声を聞いただけで、涙が出そうになった。大の男がこんなところで泣き出すなんて、恥ずかしいにも程がある。


 それでも鼻の奥にツンとしたものがきて、涙が目に溜まるのが分かった。


 本当にエリスなんだ。


 生きて、エリスがここにいる。


 あの時の様々なことが頭の中で一気に噴き出しそうになり、俺は慌ててそれに蓋を閉めた。


 ここでそんなことを思い出してしまったら、それこそ収拾がつかなくなる。


 俺が言葉を続けようとしたら、エリスが手を目前にあげた。まるで、制止するように。


 どうしたんだ?


 エリスは顔を下に向けてしまったせいで、どんな表情をしているのか分からなかった。


 もう話したくないということ、なのか。


 エリスは顔を上げず、声だけが聞こえた。


「‥‥私は、本来ならあなたとこうして話ができる立場じゃないの。身勝手な理由であなたを傷つけ、恩をあだで返した。何をしたって、許されることじゃない」


 一度言葉が途切れる。


 そしてエリスは言った。


「ごめんなさい――」


 その謝罪にどれだけの思いが込められているのだろうか。


「‥‥」


 たしかにあの時俺は絶望のどん底を見た。自死しなかったのは、それをするだけの気力すら残っていなかったからだ。


 どんな理由があったにせよ、その事実は変わらない。


 どうして話してくれなかったのか。


 相談してくれていれば。


 たとえ勇者の呪いに取り殺されるとしても、最後まで君たちといられれば、それでよかった。


 そんな考えも見透かされていたからこその、結末なんだろうけど。


 俺の答えは決まっていた。


 記憶のページを、一枚ずつ、丁寧にめくる。


「初めて魔族と戦った時、倒したと思って油断したところを殺されかけた。暗殺ギルドに狙われた時は、組織を相手にすることの恐怖を思い知ったよ。‥‥ラルカンと戦った時、絶対に勝てないと思った。こんな強い連中を相手に勝てる未来が見えなかった」


 そうだ。こうして思い返すと、何回死にかけてるんだよ。


 仕方ない話だよな。地球から来たただの中学生がわけもわからず戦場に放り出されたんだから。


「師匠が殺されて、俺自身『ガレオ』に冥界に送られた。病魔の王との戦いは‥‥思い出したくもないな。死んだ方がマシだって思ったことは、何回もあるよ。数えてもいないけどさ」


 語るだけで、あの時の冷たい熱が、全身をおかしていく。身体中に刻まれた古傷が、じくじくと痛みと共にうずきだした。


 そうだった。


 地球に帰ってきた時の俺は別れに嘆いていたが、アステリスに呼ばれた頃は地球に帰りたいと、ずっと泣いていた。


 父さんと母さんに会いたい。友達と話したい。母さんの料理を食べて、コーラを飲んで、テレビを見て、退屈でつまらない明日が来ることに疑問ももたず、眠りにつく。


 そんな生活がどれだけ尊いものだったのか、汗と血反吐ちへどにまみれて思い知るのだ。


 勝手に呼んでおいて、勝手に失望するなよ。


 期待しないでくれ。


 魔族だって生きてるんだろう。殺せるはずがない。戦争なんて、しちゃいけないんだ。


 そんな甘ったれた理想は、誰も、聞いてくれさえしなかった。


 彼らが求めているものは最強の勇者で、山本勇輔ではなかったのだ。


 その中で、たった一人だけ。たった一人だけが、俺を見てくれた。俺の話を聞いて、甘えるなとかつを入れてくれた。


 優しいエリスのことだ。きっとそんな俺の姿を見て、一人罪悪感を抱えてこんでいたに違いないのだ。弱音が重荷になるなんて、あの時の俺は気付きもしなかった。


 馬鹿だよな。呼ばれた側が辛いんだから、呼んだ責任を背負った人だって、辛いに決まっているのに。


「魔王と戦った時は、正直な話、たぶん、死んでもいいと思ってたんだ。ここで全部使い切って、役目を果たせればそれでいいんだって」


 実際、そうなる未来はすぐ近くにあったのだろう。


 ほんの一歩、別の道に進んだだけで、俺はそこに至っていたはずだ。


 しかし、そうはならなかった。


「エリス、君がいてくれたからだ」


 あの時も、あの時も、あの時も。


「エリスがずっと俺の手を掴んでいてくれたから、俺はここにいる」


 だから、生きてこられた。


 エリスが俺を見捨てることなく、最後まで一緒にいてくれたからだ。それもまた、紛れもない真実なんだ。


 ずっと俺を救ってくれた女性ひとがたった一度だけついた、優しい嘘。


 初めから、許すも何もない。




「ありがとう。ずっと俺を助けてくれて」




 君に伝えられる言葉は、これだけだ。


「――‼︎」


 エリスがバッと顔を上げた。


 その顔はとっくの昔に涙でぐっしょり濡れていて、ずいぶんと幼く見えた。


 そのまま彼女は唇を震わせて言う。


「わ、私の方なの‥‥あなたに救われたのは」

「エリスが?」


 それは思いもよらない言葉だった。俺がエリスに助けられることはあっても、俺が彼女を助けたことなんて本当にまれだ。


「私は、物心ついたころから多くのものに囲まれていた。期待もたくさんかけてもらった。与えられた魔術の才は、魔王と戦うための運命だとさえ思っていた」


 エリスは言う。その胸にずっと秘めていた思いを。


「けれど、私は勇者に選ばれなかった。私は‥‥私は、あなたを利用したの。自分の夢のために、責務のために」


 ぽつぽつと、陽だまりに落ちる雨粒のように、言葉が紡がれる。


 王族に生まれ、幼いころから類まれな魔術の才を認められていたエリスの人生は、泥にまみれた俺のものとは違い過ぎる。


 だから、光輝く面にばかり目が行ってしまう。華々しい活躍ばかりが焼き付いて、その影にあるものが見えなくなる。


 生まれた瞬間から一国と世界の期待を背負う重圧は、どれ程のものだろうか。


「あなたは、身勝手な私の期待に、願いに、必ず応えてくれた。魔将と戦った時も、軍師として兵を率いた時も、多くの兵が、国民が、私の命令で死んだ時も、あなたは常に私の前で剣を振り続けてくれた」


 それは、当たり前の話だ。


 だって俺にはそれしかできないんだから。


 交渉事も、作戦を立てることも、兵を鼓舞することも、まともにできやしない。


 エリスがそんな俺を後ろからどんな気持ちで見ているかなんて、想像したこともなかった。コウやシャーラのように、俺以外にも強い魔術師は多くいる。彼女にとっては、数ある戦力の一つでしかないと、そう思っていた。


 エリスの目は、涙にうるみながらも、俺の目を掴んで離さなかった。




「ユースケ、あなたはどんな絶望の中でも希望を切りひらいてくれる。私の白銀シロガネ道標みちしるべだったのよ」




 彼女は泣きながら、笑った。


 ――ああ、そうだった。


 なんであんな苦しい世界で戦え続けたのかなんて、簡単な理由だった。


 君のその笑顔が見ることができたら、どんな痛みも恐怖も忘れて、戦うことができたんだ。


「だから、ありがとうユースケ」


 その声はもう震えて、聞き取るのが難しいほどだった。


 あるいは震えていたのは、俺の方だったのかもしれない。


 自分でもあまりに馬鹿で単純だと思う。謝られるよりも、その一言を聞けただけで、あの日々が間違いではなかったと、確信出来てしまうのだから。

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