第80話 変わらないもの

 一杯は人酒を飲む、二杯は酒酒を飲む、三杯は酒人を飲むなんて言葉があるが、酒というものはどうしたって人を狂わせずにはいられない。というより自分から狂うために飲んでいる節さえある。朝起きれば鳴り止まぬ頭痛と製造した黒歴史にのたうち回るというのに、結局飲むんだから始末に負えない。まさしく人間とは酔狂な生き物である。


 きっと未だに宴会場でどったんばったんやってる連中は、明日の朝己の愚かさを身をもって味わうことになるだろう。


 カナミはリーシャを連れて早々に退散し、俺を半死半生まで追いやった陽向も突然「もういいで

す、寝ます」とだけ言い残して消えていった。


 俺もついさっき意識を取り戻し、這う這うの体で逃げ出したわけである。


「ふい~‥‥」


 そんな酒盛り前線から脱出して向かった先は、無論のこと温泉である。


 この合宿所に選ばれた旅館は、会長の強い要望で露天風呂付き。星の瞬く夜景の下で湯に浸かっていると、どこかとてつもなく遠いところに来てしまったように感じる。


 ひたひたに染み込んでいた酒が湯に溶けていく感覚。


 時間も時間なので俺以外の人影もなく、人目を気にせず身体を伸ばす。


 考えてみればここ最近こんな風にゆっくりできることはなかった。激化する戦いの中でこそ、よい休息が必要だ。


 熱気の籠った息を吐き出し、肩まで湯に浸かる。


 隣から声が聞こえてきたのは、そんな時だった。


「‥‥ユースケ様、でしょうか?」


 ともすれば聞き逃してしまいそうな女性の声。


 その声は男湯と女湯を仕切る壁の向こう側から聞こえてきた。


「カナミか?」

「ああ、やはりユースケ様でしたか。気配がそうかなと感じまして」


 カナミも俺と同じように露天風呂に浸かりにきたんだろう。


 てっきりもう寝たのかと思ってた。


「リーシャもいるのか?」

「いえ、リーシャはもう寝ましたわ。はしゃぎ過ぎて疲れたのでございましょう」

「確かに楽しそうにはしてたな」


 電車旅、旅館、都会とはまた違った場所。きっとリーシャにとっては驚きの連続だっただろう。楽しんでくれたのなら連れてきた甲斐があった。


「カナミはどうだった? 無理言って連れてきちゃったけど」

「そうですわね‥‥楽しかったですわ」


 レスポンスの早い彼女にしては珍しく、返答には間があった。ただそれは返答に迷ったという感じではなく、カナミもまた温泉の魔力に絡めとられているのが想像できた。


「今までも他国への訪問や戦争での遠征は経験したことがありましたが、こうして慰安のためだけに旅行に来るというのもいいものですわね」

「戦争、か‥‥」


 俺はそこで零れそうになった疑問を、口を閉じて飲み込んだ。


 俺がいなくなった後のアステリスは、セントライズ王国はどうなったのか。ずっと気にはなっていた。リーシャが各国の情勢なんて知っているはずがないが、カナミなら間違いなくそのあたりにも詳しいはずだ。


 しかし意図的にその質問をすることは避けていた。既に知っても意味がないことだから。


「どうかしましたか、ユースケ様?」

「いや、なんでもない」


 お湯を掬って顔にかける。


 俺はリーシャを守るためにこの神魔大戦に参加した。余計なことに気を取られていては足元をすくわれる。


 話題を変えよう。


「明日はカナミも海だろ、泳いだことはあるのか?」

「川で泳ぎの訓練をしたことはありますわ。海で泳いだことはありませんが、大丈夫だと思います」

「そっか。リーシャの方は俺も見るし、カナミも普段気張ってるんだから、明日くらいは羽を伸ばしてくれていいからな」


 そう言うと、暫く無音が続いてからクスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。


 何か変なこと言ったかな?


「カナミ?」

「申し訳ありませんわ、少し昔のことを思い出しまして。そうですわね、明日は私も休ませていただきますわ」

「お、おう」

「ではお先に失礼させていただきます。ユースケ様も早めにお休みくださいませ」

「分かったよ、おやすみ」


 カナミの立ち上がる水音が聞こえ、向こう側の気配が遠ざかっていく。

 思い出し笑いって、昔似たようなことを言われたことがあるのか。普通の会話だったと思うけど。

 もう少し入ったら俺も寝よう。明日はみんな早くから海に行くだろうし。




     ◇  ◇  ◇




 大きな湯船に浸かるのはカナミにとって非日常ではない。


 皇宮には旅館の温泉など足元にも及ばない巨大な浴場があり、そこでは使用人たちが万全の準備を整えて待っている。遠征や訓練では湯に浸かれないこともあったが、基本的には毎日その浴場を使っていたのだ。


 それに比べれば特別驚くようなものでもない。


 しかし、


「‥‥」


 チャプン、と掬ったお湯が手のひらからこぼれ落ちる。ぼんやりと光る灯籠と星の明かりが湯の中で淡く反射した。


「これはこれでいいものですわね」


 流石のカナミも野外で風呂に入る経験はなかった。いくら広い浴場であっても、この開放感はまた別格である。


 わざと他の人と時間をズラしたため、露天風呂もカナミ一人きりだった。


 実はカナミは既に一度他の女性陣とリーシャを伴って温泉に入っていた。ただその時は迫り来る女性陣の魔の手からリーシャを守るのに精一杯で楽しむ暇もなかったので、こうしてもう一度浸かりにきたのである。


 まさか男湯に勇輔が入っているのは予想外だったが。


 そして勇輔との取り留めもない話。勇輔が今回の合宿にリーシャを連れてきたがっていた理由は、なんとなく察しがついていた。ただ強いだけじゃない、優しい人だから。


「そっか。リーシャの方は俺も見るし、カナミも普段気張ってるんだから、羽を伸ばしてくれていいからな」


 そんな時、勇輔がそんなことを言った。きっとリーシャだけじゃなくカナミにも楽しんでほしい、そんな思いからだったんだろう。


「‥‥」


 瞬間、脳裏に懐かしい記憶が瞬いた。心の奥底の宝箱に仕舞っていた思い出が蓋を開けて飛び出してくる。


 思わず笑い声が口の隙間から溢れ出た。


「カナミ?」


 不思議そうな彼の言葉が、またくすぐったさを感じさせる。


 それを悟られるのが恥ずかしくて、カナミは勇輔との話を少し強引に打ち切った。


 頬が熱いのは、温泉に長く浸かり過ぎたせいだ。


 湯から出たカナミは、最後にシャワーを浴びて全身の汗を流した。とても十六歳には思えない蠱惑的な身体を無数の水滴が流れ落ちていく。


 自分でも分かる、あの時から随分と成長した。身体も、心も。


 だから勇輔が気づかないのも、覚えていないのも無理はないだろう。


 ランテナス要塞攻防戦、実はあの時カナミと勇輔は会っているのだ。しかも一度ではなく、二度。




     ◇  ◇  ◇




 一度目は勇輔とガレオの決着が着かず、お互いの軍隊が大きく退いた夜。


 勇者一行がランテナス要塞の最高責任者であるカナミに挨拶に来た時だった。


 格としてはカナミとエリス・フィルン・セントライズがトップであり、そこにランテナス要塞の将軍が入って話は進んだ。


 勇輔とカナミが話したのは、一番最後だった。


 ガレオを退けた勇輔に労いの言葉をかけたカナミに、彼はこう言ったのだ。


『この戦いを終わらせるために来ました。後は私たちに任せ、皇女様はゆっくりお休みください』


 その言葉に、誰もが沈黙した。


 皇族に対してあまりに傲岸不遜な物言い。ともすればお前たちは用済みだとも取れてしまう言葉だった。


 しかし沈黙は怒りや驚愕によって起きたものではなかった。勇者の言葉はその場にいる全員に絶大な安心と信頼を与えたのだ。


 一度ガレオに敗れたという噂から、勇者の力を疑問視する者たちも皇宮には多くいたが、とんでもない。


 今この目前でその実力に疑問を持つというのなら、それは余程の阿呆か己の非を認められない愚者だ。


 一挙手一投足から滲み出る気迫、鎧に纏う魔力はもはや城壁もかくやという重厚さに満ち満ちていた。


 だが何よりカナミの心を捉えて離さなかったのは、その言葉から溢れる勇者の想い。


 白銀の兜から表情を読み取ることはできない。それでも、その言葉からは本気でカナミの体調を案じているのが分かった。


 この人になら任せられる。その瞬間に緊張の糸が切れたカナミは気を失い、謁見は暖かな暗闇の中で幕を閉じた。


 二度目はカナミの我が儘が産んだ偶然だった。


 彼女は『シャイカの眼』で戦況を逐一把握し、時には兵たちの前に姿を見せ士気を上げる仕事もしていた。


 その日々を過すうちに、カナミは本当の兵たちの姿を近くで見たくなった。自分でも何と言えばいいのか分からない、責任とも好奇心とも少し違う感情。


 今から自分たちの指示で死に行く者たちの姿を、最後の顔と言葉を、最も近いところで目に焼き付けておきたかった。それが後々心を引き裂く荊棘の道であったとしても。


 故に彼女は特徴的な菫色の髪を頭巾で隠し、下女の格好をして兵たちへの配給に紛れることがあった。


 勇者が来て翌日、体調がある程度回復したカナミは侍女と護衛を『シャイカの眼』でかいくぐり、配給に紛れ込んだ。


 部屋に籠る熱気、料理の匂いに混ざる血と汗の匂い。食堂に集まる兵士たちは皆身体の至る所に包帯や布を巻き、落としきれなかった血が乾いてこびりついている。


 怪我をしていない者はいない。中には腕や眼を欠損して尚、魔術で止血だけして復帰している人間もいた。


 それでもその顔は皆明るい。ついこの間まで死神が彷徨う足音さえ聞こえそうな静寂だったというのに。


 その理由はあまりに明白だった。


 勇者の威光は、こんなところまで照らす。


 あの白銀の鎧の中にいるのはどんな人なんだろうか。もしも会うことができたのなら、本当のあの人にお礼を言いたい。


 そんなことを思いながら皿を回収している時だった。


「おい今日の戦い見たか? あれがセントライズ王国の王女様なんだろ?」

「凄かったよなあ、あの魔術。敵が一瞬で蹴散らされるんだから、腰抜かすかと思ったぜ」

「しかもよ、俺たまたま近くで見えたんだけどさ、めっちゃ美人なんだぜ」

「いやいくら美人でも、あの顔と魔術は絶対性格キツイぞ」

「そりゃ違いないわ、というかお前いつからこの部隊に来たんだ?」

「んなことどうでもいいだろ! まあ飲めよ」


 聞こえてくる他愛無い雑談。そこに目を向けたのは本当に偶然だった。


 同時に『シャイカの眼』が起動した。それは本来なら有り得ない事象だ。魔道具を起動させるどうかは術者が決める。にも拘わらず、その瞬間眼はカナミの意思を無視して動いたのだ。

そんな驚愕の現象も、次の瞬間目に入ったものに押し流されて消えてしまった。


 屈強な男たちに混じって一人だけ小柄な少年が混じっていた。明らかにファドル皇国の人間ではない、体格は細身で顔も彫りが浅く、少年兵も混じっているこの軍でさえ、異質。


 だがそんなことは大した問題ではなかった。


 その魔力の本質を『シャイカの眼』は捉えていた。神々しく、隠されて尚鮮烈な輝きを放つ翡翠の光。


「ゆうっ‥‥⁉︎」


 思わず持っていた皿を落としそうになり、カナミは慌てて力を入れ直した。


 間違いない。見紛うはずがない。


 この魔力は謁見時に見た勇者と同じ魔力。つまり目の前で兵士たちと酒を飲み交わしているのは、今日ガレオと剣を交えていた勇者本人ということになる。


 どうしてこんなところに、という思いはすぐに消えた。


 彼もまたカナミと同じ気持ちだったんだろう。共に前線で戦う戦友と食を共にする。そこになんらおかしなところはない。


 あまりに突然の出会い。言いたいことは山ほどあったはずなのに、今は下女と一兵卒。皇女として考えていたいくつもの言葉は泡となって弾け、思考の波に頭が溺れていく。


 そうこうしているうちに、先に声をかけてきたのは勇輔の方だった。


「ん? どうしたチビっ子?」

「あ、あ、いえ、なんでも」


 正面から顔を見て驚いた。想像以上に若い。てっきり傷だらけの壮年かとばかり思っていたが、成人したてくらいだろう。


 戸惑うカナミに、怖がられていると勘違いしたのか勇輔はおどけたように笑ってみせた。


「おいおい、ここら辺の連中に比べたら全然怖くないだろ」

「別に怖いわけでは、ないのですが‥‥」

「おお、そっかそっか」


 そう言うと、徐に勇輔は手を伸ばしてカナミの被っていたぼろの頭巾に手を当てた。父親にさえまともに撫でられた記憶のない頭を、勇輔はぽんぽんと叩いた。


「そんな不安そうな顔するなって。すぐに俺たちがあいつらぶっ飛ばしてくるからさ。明日からはゆっくり過ごせるようになるさ」

「‥‥」


 ──ああ、そういうことでしたのね。


 カナミはその時気づいた。


 きっと勇者にとって皇族の自分も下女の自分も、同じ小さな女の子だったんだろう。


 そんな見られ方をしたことはない。生まれながらに皇族の尊き血筋に連なる者として、その責任はまさしく国の重さ。どれだけ辛くても、苦しくても、それが当然である。


 何故なら、そう生まれたのだから。民を守る人間が弱さを見せてはならない。弱音を吐いてはならない。誰かに気遣われるなどもっての外だ。そう教わってきた。


 なのに貴方からの言葉は、皇女の姿をしていても、下女の姿をしていても等しく心を揺さぶった。


 カナミは下唇を噛んで涙を堪えた。


「あ、おい!」


 まだ戦いが終わったわけじゃない、泣いてなんていられない。それが限界で、言いたかったはずの言葉を言うこともできず、カナミはその場から逃げ出すように立ち去った。


 結局ランテナス要塞の戦いでガレオとの決着は着かず、魔族の軍は撤退。勇者一行はまともに別れの挨拶をすることもなく、それを追ってカナミたちの下を後にした。


 彼女が銃を手にしたのは、そのすぐ後のことだった。

 


 変わらない。



 勇輔はあの日自分が憧れた姿のままここにいる。


 胸が高鳴り、心臓が早鐘の如く鼓動を打つ。この昂ぶりはきっと湯に浸かり過ぎたからではない。


「‥‥勇者様は、戦い以外は鈍感でいらっしゃいますわ」


 きっと勇輔は気付かないだろう。旅よりも温泉よりも、今こうして話ができるということが何よりも幸せなのだということに。

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