第67話 夜霧の街

 誰かの物語が進んでいるということは、別の誰かの物語もまた進んでいるということに他ならない。


 それは互いに交差した時はじめて語られるべきものであるが、その序章がある場所で始まっていた。


 日本から遥か離れた栄光を戴く孤島、英国――ロンドン。


 ロンドンの街並みは大都市でありながら、日本と比べて古い建造物が今なお使われている。それこそは英国というものが積み重ねてきた歴史と誇りの一端だ。


 しかし現代的な側面も勿論存在し、夜になれば人工的な明かりによって鮮やかな光に彩られる。


 そう、本来のロンドンであればだ。


 今この町を支配しているのは重苦しい静寂だった。明かりは必要最低限、賑わうはずの大通りに人影はなく、まるで切り裂きジャックの出る時代のような緊張感と恐怖が漂っていた。


 その道を数人の人間が歩いていた。修道服に鎧の意匠をあしらい、首には十字架のネックレスをかけている。


 キリスト教徒が多いといえど、明らかに異様な雰囲気を放つ集団は、更に異様さを際立てる要因を持っていた。


 即ち腰に佩く剣や背負う長物だ。


 それこそ中世から時代を跳んできたような古めかしい武装をそれぞれが所持しているのだ。


 彼らは英国国教会に所属する祓魔師エクソシストたちだ。古くは悪魔祓いを祖とする彼らだが、現代における祓魔師エクソシストは魔女狩り、異端者の粛清、広義における神の敵を撃ち滅ぼす騎士たちだった。


 歴史の中で彼らは悪魔を祓い、魔術を滅ぼし、異端を消してきた。


 その事実と信仰が重なり合い、根深い闇となって彼らの力となる。神の敵を倒すという一点において、祓魔師エクソシストは人智を超えた力を振るうことができる。


 たとえそれが魔力を使った、彼らの忌み嫌う魔術と同じものであったとしても。


 言ってしまえば本質は同じでありながら形が違う。


 しかし形さえ違っていればそれでいいのだ。誰も本質になど目を向けない。必要なのは敵を討つ力と、それが人々にとって神の御業であると認識されればそれでいい。


 事実教会神への信仰心によって魔術が行使されるため、それも事実の側面であると言えた。


 オスカー・クレインは弱冠二十歳ながら祓魔師エクソシストに就いた天才である。


 理術と呼ばれる神の加護を用い、これまでに幾体もの神敵を討ち滅ぼしてきた。


 男性にしては珍しくこげ茶色の長い髪を三つ編みにし、歴戦を物語るように右目の下には裂傷の痕が残っている。


 今日の任務は最近夜に出没する怪物の討伐だった。


 人の多いロンドンでは善悪入り混じった意思が常に渦巻いている。悪意と憎悪が何らかの切っ掛けで形を持てば、そこには怪物が生まれるのだ。


 本来ならオスカー一人でも十分過ぎる戦力であり、教会が何故これだけの人数を動員させたのか彼には疑問だった。


 そして闇の中で彼らは出会う、異世界より這い出た絶望に。




 闇が蠢き、そこから顔を出したのは山羊の頭骨だった。


 蠢いているように見えたのは山羊が身に付けた黒い外套で、その首元には様々な色の宝石が浮かんでいる。


 まさしく悪魔といった出で立ちにオスカーたちは一瞬身を固くした。


 悪魔は神敵の中でも相当危険な部類だ。位によってその力は異なるが、低位であってもその力は人の想像を遥かに超える。


 しかしここにいる祓魔師エクソシストたちもまた悪魔殺しの専門家であった。


 故に彼らに緊張が走ったのは束の間、すぐに動き出す。有無を言わさず敵を消滅させるために。


 それが地獄への門をくぐる一歩であったことを知るのは、そう遠からぬことだった。


 それぞれの武器を手に理術を発動させ、悪魔へと切りかかったオスカーたちは、その手応えのなさに驚き、動きを止めた。


 まるで煙を切ったかのような感触。


 いや事実彼らは自分たちも気付かない間に煙に巻かれていた。重く粘ついた、闇色の煙に。


「っ――⁉」

「逃げろ、攻撃されているぞ!」

「なんだこれは、魔術か⁉」


 言葉が交錯する中、オスカーたちは即座に自身の魔術を用いて闇を祓い、離脱しようとする。


 だがそれは叶わなかった。


 光すら飲み込む煙はまるで手応えがなく、振り切ることができない。夜そのものが纏わりついてくるような錯覚さえ覚える。


『そいつらの好物は光だよ。光を蓄えた生命力は極上の餌でしかない』


 視界が潰れる中で何か音が聞こえてきた。


「クソがっ!」


 オスカーは袖口から真白の杭を取り出し、声の聞こえた方へ投擲。しかしその一撃は、建物に突き立つ甲高い音が響くだけだった。


「チッ!」


 視界が悪く、敵の位置が分からない。となれば、まず優先すべきはこの状況からの脱却。


 オスカーは右手に握った十字剣を闇へと振るいながら、全力で地を蹴った。


 しかし闇の煙は泥のような抵抗力と、想像以上の速さでオスカーを逃さない。闇は攻撃をすり抜けながら形を変え、数多の獣と化す。次々に牙がオスカーの身体へと食らいついた。血は流れず、痛みもない。だが確かに命がそこから流れ出していくのが分かった。


「っ、なんなんだこいつらは!」


 叫びは虚しく煙に巻かれた。あらゆる攻撃は効かず、振り切ることもできない。


 これまで幾多もの悪魔を祓ってきたオスカーをして、それが何なのか判別することはできなかった。ただ金属と金属がこすれるようなノイズが脳を震わせ、命が削れていく。


 何とか状況を打開しようとする祓魔師エクソシストたちを、山羊の頭骨は上空から見下ろしていた。


 その伽藍洞の双眸からは何の感情も見られないが、ただ淡々と負荷を強くしていく様子からは、実験動物を観察するような冷酷さが感じられる。


 彼の眼下では、次々に祓魔師エクソシストは倒れ伏し、武器が空虚な音を立てて地面に転がった。


 オスカーもついに立っていられなくなり、膝をついた。十字剣はもはや杖としての役目しか果たさず、魔力も底を尽きた。


 海の中で空気を求めるように月を見上げれば、そこには悪魔が悠然と佇んでいた。


 あまりにも明確に見える死の未来。


「お、のれ‥‥」


 せめて一矢報いらんと剣を天へと伸ばそうとするが、それすらも闇が捉える。自分の手の先すら見えなくなっていく中で、オスカーはその隙間から最後まで仇敵を見据えていた。


「‥‥必ずやっ、神の裁きが!」


 それは苦し紛れの言葉でしかなかった。死に行く弱者の戯言だ。


 悪魔からすれば聞くに能わず、言葉は虚しく闇に飲まれ行く運命だった。


 しかし言葉は時に魔力を持つ。


 感情の励起、真に魂の籠った言葉は言霊となって敵を穿つ、原初の魔術。


 だからそれが起きた時、オスカーは初め自らの言葉が本当に神の裁きを引き起こしたのだと思った。






 山羊頭の悪魔――『ハルド』の称号を授かりし魔族は、何かが自分を突き抜ける感触を得た。






 確認する必要もなく理解する、それは自分の命を断ち切るような激甚の一撃だと。あまりにも唐突に振り下ろされた、死神の鎌。


 ――あり得ない。


 視界が左右でズレていく中、『ハルド』は否定の言葉を呟いた。


 彼は冥府の死者と契約し、昼の世界で生きられない代償として、強力な魔術を得ている。


 深夜の限られた時間しか発動できないが、その間はほぼ無敵と言っても過言ではないのだ。


 だが事実として彼は殺された。無慈悲に、無残に、呆気なく。


『馬鹿‥‥な‥‥』


 オスカーがやったのではない。死に際の言葉にそんな力はなかった。もっと別の、異質な何か。


 『ハルド』は最後に仇の顔を見るために頭を動かそうとするが、それすら叶うことはなかった。頭骨は縦半分に分かれ、断面から凍り付いていく。


 それが地上に落ちたとき、頭骨は周囲の闇諸共砕け散った。


 街並みは悪い夢から醒めたように、いつも通りの夜へと帰った。


「なにが‥‥」


 悪魔のあまりにも呆気ない幕引きに、オスカーは瞬きすら忘れて動きを止めていた。


 それは悪魔が死んだことが理由だったのか、あるいは悪魔の奥から現れた存在が理由だったのか、彼自身さえ判然としなかった。




 死神は美しい少女だった。




 月の光を梳かしたようなプラチナブロンドの髪、見ているだけで時間を忘れる紅玉の瞳。なによりヴェール越しに見える神が造形したとしか思えない無機質なその美貌に、オスカーは全てを忘れて見入っていた。


 まるでウェディングドレスのような漆黒のドレスもまた、少女の幻想的な雰囲気を高めていた。


「あ、あなたは‥‥」


 答えがあると期待しての問いではなかった。しかし聞かずにはいられない。


 予想に反し、少女はゆっくりと空から降りてくるとオスカーの前で止まり、小さく口を開いた。


「私はシャーラ」


 ガラスを鳴らすような澄んだ音色。ともすればその声はオーケストラの演奏よりも激しくオスカーの脳を揺さぶった。


 シャーラ、シャーラ。オスカーは無意識の内に口の中で何度もその名を呟いていた。この少女は神の使いなのだろうか。いや、そうに違いない。


 この美しさ、信徒たる自分を窮地より救った力。神の使いでなければなんだと言うのか。


 オスカーはすぐさま騎士の礼を取ろうとするが、それよりも早くシャーラが一歩を踏み込んだ。美しい顔が迫り、オスカーの心臓が跳ね上がる。


 あまりにも長く感じられる数瞬。


 そして少女の薄い唇が開き、言った。





「ここはニホン?」


 二人の出会いによってこの物語は加速する。


 だが日本と英国、二つの物語が交錯するのはまだ先の話だ。






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シャーラさんは32話『それぞれの思い』で名前が登場している、元勇者パーティーの一人です。

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