第235話 その女、誰?
一度家に帰り、夜も深まったころ。俺は土御門から聞いたことをノートに整理していた。人族、魔族、対魔官、
昔ならリストやエリスがこの手の情報は整理したり、作戦を立てたりしてくれたんだが、ここにはいない。頭脳労働が苦手とか言っている場合ではないのだ。
――ふむ。
俺はまとめるだけまとめたノートを見て、腕を組んだ。
さっぱり分からん。情報が増えただけ、余計に混乱している気さえする。
いや、そもそも俺が頭を使おうと思ったのが間違いだったのかもしれない。
こういうのは適材適所。できる人間がするべきだと実感しましたね、ええ。腹立たしいことにメヴィアとかも頭いいので、早く戻ってくることを期待しましょう。
素直で賢明な俺は、ノートをそっと閉じた。
あー、頭を使うとお腹が減るな。なんか甘い物でも食べに行こうかしら。
圧倒的に女子比率の高いこの家は、戸棚に大量の甘味が常備されている。一人一人絶妙に味の好みが違うので、バラエティーも豊かだ。
ちょっとくらいならバレないだろ。
そう思い立ち上がろうとした時だった。
コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。
誰だ? こんな時間に。間違いなくシャーラではない。オールマイウェイな彼女にノックという概念は存在しないので、既に扉は開け放たれているはずだ。
足音がほとんどしなかったので、リーシャの線もない。
そしてカナミのノックはもう少し控え目。となれば、候補は一人しかいなかった。
「どうぞ」
そう声をかけると、予想通りの人物がドアを開けた。
「ごめんなさい、今時間大丈夫かしら」
控えめな声と共に顔をのぞかせたのは、月子だった。一緒にルームシェアをするようになってから比較的距離感が近くなったとは思うが、こんな時間に彼女が訪ねてきたことはない。
俺自身、極力月子の生活には干渉しないように気を付けてきた。
文化祭の時に和解したとはいえ、『元恋人』という関係性に変化はないのだ。
部屋着姿や風呂上がりの色気にドキッとはすることはある。しかし月子は仕事としてこの場にいるのだと、自分に言い聞かせる日々だ。
意識しないのは無理。あとはそれをいかに悟られないようにするかという戦い。エリスと過ごした経験は俺を情けない童貞から、誇り高き童貞へと進化させた。退化かもしれない。
さて、そんな話はさておき、月子がこんな時間に俺の部屋に来るなんて、何の用件だろ。
「ああ、大丈夫だけど、どうかしたのか」
「‥‥いえ、別に特別な用があったわけではないのだけど」
月子はためらいがちに部屋の中に入ってくる。ドアに隠れて見えなかったけれど、その手にはティーセットが乗ったお盆があった。
「少し話がしたいと思って。いいかしら?」
「あ、ああ。全然いいぞ」
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて」
お互い初めの言葉が足踏みする。落ち着け、今までだってリーシャやカナミと一緒に生活してきたはずだ。
脳裏に思い出されるのは、おやつを食べて動画を見るリーシャと、それとなく俺の視界に入らないように配慮するカナミ。おかしいな、二人とも美少女なのに、こういう雰囲気になったこと一度もないぞ。
月子は硬い動きで歩いてくると、小さなテーブルにお盆を置いた。
そしてティーカップに紅茶を注いだ。
「カフェインレスのハーブティーなのだけど、飲める?」
「俺が嫌いな物ほとんどないの知ってるだろ」
「そうだったわね。本当に何でも平気な顔して食べるから驚いたわ。流石にドクダミを生でもしゃもしゃ食べている時は、少し引いたけど」
「え、マジ?」
「訂正すると、かなり」
「その訂正必要だった?」
俺が言うと、月子はくすくすと笑った。
懐かしいな。そんなこともあった。あれは二人で東南アジア系のレストランに行った時だったか。クレープなんだかお好み焼きなんだかよく分からない料理でドクダミが出てきたのだ。
普段は食事を残さない月子が、一口食べて固まったのを覚えている。
ちょっといいところ見せようと思って全て俺が食べたわけだが、かっこういいどころか珍獣扱いかよ。
「そういうのも、あなたの生い立ちが関係しているのかしら」
何気ない一言に、俺は思わず月子の顔を見た。彼女の目を見た時、何故わざわざ俺の部屋に来たのか、今になって分かった。
リーシャの時も、こんな感じだったな。
「そうだな。アステリスで旅していた時は、食べ物を選べない時も多かったからな」
「そう。やっぱりゲームみたいに旅するものなのね」
「ほとんど旅だったよ。俺は魔王を殺すために召喚されたわけだけど、いきなり本丸に突撃するわけにもいかなかったし。いろんな所回って敵の魔族を各個撃破する感じだったな」
勇者だなんだと言われても、やっていることは傭兵みたいなものだし。
月子は言われたことを理解しようと、目を閉じて頷く。
まあ、今いち実感わかないよなあ。異世界だとか勇者だとか、地球の一般的な感覚においては、フィクションとしての観念が定着している。
俺が戦う姿や魔族を見ていたとしても、その奥にある別の世界までは理解が追い付かないのだろう。
「大丈夫か?」
「大丈夫よ。ただあなたの書く作品に妙なリアリティーがある理由に納得してしまって、不思議な感覚なの」
ああ、ゴブリンの描写がきもいと言われた異世界見聞録な。頑張って書いたのに。
紅茶を一口飲んでから、改めて月子は口を開いた。
「折角だから、異世界での生活というのを教えてもらってもいい?」
「それは全然いいんだけど。どっから話せばいいんだろうな‥‥」
「印象深い国とか、人とか、聞いてみたいわね」
はいはい、印象深い国ね。そういう話であれば、俺はこの世界のどんなバックパッカーよりも面白い話ができる自信がある。
何せ魔法が発展した世界だ。地球の人間では絶対に出ない発想が現実に存在するのである。
俺も紅茶で唇を湿らせてから、思い出を語り始めた。
◇ ◇ ◇
酒を飲んだわけでもないのに、俺の舌は饒舌に話を垂れ流した。
地球の人にアステリスの話ができる機会はこれまでほぼなかった。何かを伝える度に驚いた反応をしてくれる月子に気を良くし、俺はあれやこれやと話し続けた。
そう、初めての経験で上機嫌になっていた俺は、月子の変化に気付けなかった。別れてから数か月、彼女の微細な表情の違いを見逃すには十分な時間だった。
「それで、その時にエリスがさ――」
どれほど時間が経っただろうか。紅茶も無くなりかけたころ、それまで頷きながら話を聞いていた月子が、おもむろに話をさえぎった。
「待って、一つ聞きたいのだけど」
「ん? どうした」
やっぱりグレイブの下ネタはよろしくなかったか。あいつは戦闘している時以外は下世話な話題しかない男だったんだよ。下半身と剣だけで構成されているのである。
しかし月子から出た言葉は予想外の方向から俺を切り裂いた。
「ずっと話に出てくるエリスさんとは、どういう関係だったの?」
「‥‥」
おおん?
先ほどまで滑らかに動き続けていた舌が、石みたいに固まった。待て待てステイステイハウス。
確かに? アステリスの話をする以上はエリスの話は出てくる。何せ四年間ずっと一緒にいたわけだから、出てこない方が不自然だ。それでも俺は気遣いのできる男、月子が知らない人の名前はなるべく出さないようにしていたはずだ。
「そ、そんなずっとは出てないだろ。グレイブとかシャーラとか、他にも」
「他の人の名前はそれぞれ五回前後。エリスさんはもう十七回出ているわね」
マジかよ。無意識のうちにそれだけエリスの名前を出していたことにも驚きだが、それを正確にカウントしている月子にも驚きだ。気のせいか若干の寒気を感じた。
「エリスは、あれだ。俺が召喚されたセントライズ王国の王女様だよ。お転婆で、魔王を倒す旅にも同行してたんだ」
「それは聞いたわ。エリスさんの素性ではなく、どういう関係だったのかを聞いたの」
「は、はい」
怖い怖い怖い。気のせいか月子の近くで火花が散っているようにも見える。彼女ほどの魔力操作で、誤発動することはないはずだから、見間違いだろう。
エリスと俺の関係ね。一言で表すのは難しい。仲間、戦友、好きだった人。
全て正しいようで、十全ではない。そもそも俺の思う関係は、俺の主観によるものだ。固い絆だと信じていたつながりは、彼女の手によって断ち切られた。
『この世界にとっても、私にとっても、邪魔なだけの存在なのよ』
あの言葉がどのような思いからだったのか。昔は夢に見る程鮮明に見ていた決別は、今の俺には、何もかもが曖昧で、湖に映った星をすくうかのような感覚だけがあった。
結局、今俺に言えることはあの時の真実だけだ。
「大事な人だったよ。エリスがいなきゃ、俺は生きていけなかった」
そう言うと、月子は一瞬視線を下に落とし、それから俺を見た。
「そう。あなたがこの世界に生きて戻ってこられたのがエリスさんのお陰だったとしたら、感謝しないといけないわね」
「‥‥そうだな」
アステリスに召喚された頃は、地球に戻ることばかり考えていた。親に会いたい。地球の食べ物が食べたい。ゲームがしたい。学校に行きたい。
何度も夢を見て、起きた時、目の前の現実が歪んで見えた。
いつからだろう。戻らなくてもいいと思うようになったのは。アステリスで生きていく覚悟を決めたのは。
またこうして戦っている俺を見たら、エリスはなんて言うだろうな。バカね、と呆れたように笑うだろうか。シャンとしろと背中を叩くだろうか。
そんな彼女の顔は、思い出の中でも明瞭だった。
「‥‥」
その時、指先に何かが触れた。
――なんだ?
思わず確認しようとして、それが月子の指だと気づいた時、視線は手ではなく彼女の顔を見ていた。
白い頬に、わずかに朱が差しているようだった。
月子はこちらを見ようとはせず、空になったカップに視線を落としていた。触れ合った場所だけが、仄かな熱量をもってつながっている。
何かを言われるよりも早く、俺も顔を逸らした。これ以上見ているのはまずい。何が良くないのかは、自分でもいまいち分からない。
彼女が次の言葉を紡いだのは、互いのぬくもりが混じり合う頃だった。
「今のあなたにとって生きる理由がなんなのかは分からないわ。それでも、勇輔には自分を大事にしてほしい。そう思っている人間がいることを、忘れないで」
その言葉は、月子の物だからだろう。胸の内を焼いた。
俺のことを思う故に、一度は離れることを選んだ月子が、今こうして隣にいることを選んでくれた。それは俺が変わったからだろうか。それとも彼女に変化があったのだろうか。
「‥‥分かった」
走馬灯のように流れる、何人もの顔と声。幾度となく交わしてきたその約束が空虚なものにならないように、俺は強張る指先を軽く握った。
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