第218話 鏡の仮面

     ◇   ◇   ◇




 この地球に来てから手に入れた拠点、オフィスビルの一室でフィンは荒い呼吸を繰り返していた。


「っはぁ、くっ、は‥‥」


 品のいい調度品が数多く置かれたはずの私室は、強盗でも入ったかのように荒れている。フィンが怒りに任せ、目に見える全てを叩き壊したのだ。


 そこまで暴れ、肉体の疲労が感情を上回った。頭が割れるような痛みに、動くことも、気絶もできない。


 ソファに手を着き、脂汗を流しながら獣のように呻き息をする。


 限界を超えた『我城がじょう』の維持と、敗北によるストレス。それが彼を内側から焼き焦がしていた。。


 結果的に櫛名が求めていた結果は得られた。


 しかしそれは必要最低限。下の下だ。


 こちらが払ったコストに対して、成果が全く見合っていない。シャーラの身柄は抑えられず、竜爪騎士団ドラグアーツは壊滅状態。


 完全な敗北。自分たちは逃げられたのではなく、逃げる以外にできなかったのだ。


 この時のために準備を重ねてきた。サーノルド帝国でも、この地球でも。誇りも私財も、時間も、フィンが持てる何もかもを投げ打って挑んだ。


 それでも届かなかった。


 勇者、白銀シロガネ


 しかも、ただ負けただけではない。竜爪騎士団ドラグアーツは殲滅させられたが、誰一人として死んでいない。


 それが意味することは一つ。


 全身全霊を賭して集めた兵力が、起こした戦争が、白銀にとっては殺す必要もない・・・・・・・戯れだった・・・・・


 ラルカン・ミニエスとの戦いで証明されている。今の白銀は敵を殺せないわけではないのだ。



 なら自分達はなんだ? 敵とさえ認識されなかった弱者。道化にもあたいしない端役か。


 あの男は誇りも怒りもを無自覚に踏みにじる、正真正銘の人でなしだ。


「ぐ、ぅぁ‥‥ぁあ」


 フィンは金の髪に爪を立て、頭をかきむしった。その中にある苛立ちを取り出すように、髪も皮膚も削る。


 貴様はいつも、いつも私の頭をかき乱す。あぁ、貴様だけは、許さない。許されない。


 勇者、勇者、勇者ぁぁぁああああ‼


「――様」


 ぐちゃぐちゃな思考に、声が割り込んだ。


「‥‥」


 亡者のような目を後ろに向けると、そこにはいつも以上に青白いバイズ・オーネットが立っていた。


 彼は白銀の一撃を受け、意識を保つことさえ困難な状態だった。魔力は尽きかけ、総大将として戦いに負けた責任を一身に背負っている。その負担は尋常ではない。


 だがバイズはフィンの守護者であり、騎士だ。どんな状況であれ、主人から目を離すことはできない。


 このまま放っておけば、爪が皮を裂き、肉をえぐっても止まらないだろう。


 故にもう一度口を開いた。それが禁忌と知っていても。


「どうかお止めください、フィオナ様・・・・




「その名で私を呼ぶなぁああ‼」




 フィンは痛みを忘れて叫び、護身用のナイフを引き抜いてバイズへ投げた。


 それはバイズの頬を掠め、背後の棚のガラスを砕いた。けたたましい音の後に、静寂が破片の上に落ちる。


「は――ぁあ」


 その時フィンは見た。棚に残ったガラスに、自分の姿がうっすらと映っている。


 窓から差し込む月明りを受けた髪は金に輝き、瞳は血のように赤く染まる。


 何より美青年と呼ぶ他なかった顔は小さく丸みを帯び、身体は折れそうな程に華奢へと変わっていた。


 物心ついた時から見慣れている、フィオナとしての身体。


 あまりに弱く、無力な少女が、呆然とこちらを見返していた。


 『鍵』に選ばれる人間は、聖女としての条件を満たした者だ。


 フィン・カナティーリャ・サーノルドという人間は存在しない。


 フィオナという少女が、魑魅魍魎ちみもうりょう住まうサーノルド帝国の表舞台で生きていくための、仮の姿。あるいは鎧だ。


 変身用の魔道具に使う魔力がなくなり、魔術が解けたのだ。己の顔を正しく認識した時、フィオナはその場に崩れ落ちた。長い髪がソファの上に散らばり、光を反射して瞬いた。


 ――まただ。


 ――またこの思いをする。


 割れるような頭痛の裏側で、いくつもの光景がよぎっては消えた。見飽きた部屋の内装、笑顔の侍女たち、豪奢ごうしゃな箱に入れられた一房の赤い髪。


 弱かった頃の自分。救われたいと願った自分。泣いて慰められるだけだった自分。


 ふざけるな。


 フィオナは心の内で叫ぶ。気候も昼夜も定かではない、柔らかな鉄の塔で誓ったのだ。


 ──そうだ、私はもう救いを求めない。


 この道が破滅だとしても、最後まで歩くことを決めた。


 フィオナは唇を噛み、過去の自分を黙殺した。


 あの時とは違う。顎に伝う生暖かい雫が赤いことだけが、それを示していた。

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