第99話 木道楽

「え‥‥」


 違う。鬼に見間違えたのはそれが鬼の面を被っていたからだ。赤い二つの角を伸ばし、憤怒ふんぬに染まった面を。


 身長は二メートル近いだろう。しかし全体的に華奢きゃしゃ体躯たいくのせいか、より高く見えた。身体には黒い甲冑を身にまとい、腰には長い野太刀のだちを帯びている。


 仮面の奥で揺れる長い白髪に、肩にかかった牡丹ぼたんの着物も相まって、どこか中性的な印象を受ける姿だった。


 あの気配からはまるで想像できない端麗たんれいな見た目。それ自体も不気味だが、真に恐るるべきは、あれ程の魔力がまるで感じられなくなっているということだ。あの鬼の身体に、全てが圧縮されている。


 月子は改めて槍を握り直した。


「どうしますか伊澄さん。どうにも逃がしてくれなさそうな気配ですけど」

「‥‥後ろでサポートをしてもらってもいいですか? 私が祓います」

「分かりました。私の魔術は『木道楽きどうらく』。見ての通り木の根や枝を成長させて操作する魔術なんですが、大した力は出せません」


 そうか、さっきの魔術はそういう仕組みかと月子は納得する。恐らく五行思想に基づいた、水もって木を育む理、水生木すいしょうもくの魔術だろう。


 あのレベルで木を操ることができれば、直接的な攻撃力はなくとも十分支援は可能なはずだ。


 なら是澤の魔術で相手の脚を止め、そこに自分が魔術を叩き込めばいい。どれだけ強力な相手でも、金雷槍を直接打ち込めれば倒せる自信があった。


「なら隙を見て相手の拘束を――」


 言葉は最後まで続かなかった。


 腕に伝わる重い衝撃と、頬にかかる生暖かい感触。何が起こったのか理解が追い付かない。月子は気配を感じて顔を上げ、目を大きく見開いた。


 目の前に鬼が立っていた。


 肩を斬られたのだと理解した時、傷口が焼かれたように熱くなる。


「伊澄さん⁉」

「っ‼」


 痛む腕で強引に槍を振るうと、鬼は緩やかな動きで後ろに下がった。


 斬られたのは右肩。金雷槍が反応して割り込んでくれたおかげで、まだ傷は浅い。


 左手で右肩を抑えながら月子は槍を構え直した。今は傷よりも驚くべきことがある。


 全く反応できなかった。


 いつ接近されて、どう斬られた?


 怪異の中には相手の認識をだまして姿を隠すものもいるが、それとはまた違う。


「伊澄さん下がって止血してください! それまでは私が食い止めます!」


 是澤はそう言いながら袖を捲ると、手首に巻かれたブレスレットを外した。それは月子も見覚えがある。綾香も魔術の媒介によく使う琥珀のブレスレットだ。生命と神秘を宿した特異な宝石からは淡い灯が揺れる。


 是澤はそれを引き千切ると、鬼の周囲にばらまき、両手を地面に着いた。


「木道楽――『蜿蜒樹々えんえんじゅじゅ』」


 魔力が地面を伝ってばらけた琥珀に結びつき、光が瞬いた。


 普段の生活から長い時間をかけて魔力を込めた琥珀は、魔術の力を何倍にも増大させる。


 地中から出現したのは巨人の手と見紛う程の大木。それはよく見れば数えきれない程の根が寄り集

まってできたものだ。


 鬼はそれを一瞥すると、滑るようにして後ろに下がった。


「まだです」


 その背後から更に現れる巨腕。


 それは鬼の身体を掴むと、もう一本もその上から覆いかぶさる。すぐさま指と指が絡み合い、根は丹念に編み込まれていく。そうしてできた牢獄はまるで木のまゆだ。繭は動き続け、そのまま鬼を圧殺せんばかりに小さくなっていく。


「すごい‥‥」


 補佐がメインだとは言うが、この威力は相当なものだ。月子は手早く粘着式の止血シートで傷を覆い、呼吸を落ち着けて魔力を回復させた。


 是澤が拘束してくれている今なら、天穿神槍で貫けるかもしれない。


 それが甘い考えだと気付いたのは直後のことだった。


 黒い波動がすぐ横を駆け抜ける。


 続け様、繭に何本もの線が走った。その延長線上の地面にも亀裂が走り、空気が裂ける音が鼓膜を揺らす。音だけで分かる、これは触れたもの全てを両断する剣閃だと。


 斬られた繭の内側から、鬼は何事もなかったかのように現れた。傷もなく、少しの動揺もない。それを横で見ていた是澤が震えを押し殺した声で呟いた。


「結構奥の手だったんですけど、時間稼ぎにもなりませんか‥‥」

「いえ、時間は十分もらいました」


 攻撃まではできなかったが、止血ができただけでも御の字。月子は金雷槍の穂先を鬼に向けながら前に出た。


 応援は絶望的、退路は既に断たれた。ならばすべきことはたった一つ。


 目の前の敵を打ち倒す。


 その揺るぎない戦意を示すように、金色の魔力が月子の周囲で爆ぜた。

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