第47話 『 聞いて下さいよせんぱーいぃ 』


「聞いて下さいよせんぱーいぃ」

「……はいはい聞いてあげるわー」


 夜。仕事を終えた文佳は、先輩である女性編集者を強引に誘って居酒屋に来ていた。


 生ビールをぐいっと飲み込む文佳に、先輩は枝豆を抓みながら適当に相槌を打っている。


「今日、ハル先生の家に会議に行ったんですよぉ」

「それでそれでー」

「ハル先生の奥さんに会ったんですよー」

「あー、そういえば、ハル先生結婚したんだっけ」


 思い出したように呟いた先輩に、文佳はジト目を向ける。


「先輩も狙ってたじゃないですかぁ……ひっく」

「ワンチャンよ。本気で狙ってた訳じゃないわ」


 編集部でも晴は好青年という印象が強く、編集者、作家、はたまたクリエイター業界関係者の数十人の女性たちは密かに晴を狙っていた。しかし、妙に女慣れした対応が『ハル先生女いる説』を勝手に築き上げてしまい、全員がなんとなく誘いづらい状況だったのだ。


 文佳の先輩も、文佳ほどではないが『ハル先生ならありね』と狙っていた。実際、一度食事に行った事があるらしい。今はその事をすっかり忘れて次の合コンの予定を組んでいるが。


「で、それでどうだったのよ。件の奥様は?」

「めっちゃくちゃ美人でした」

「へぇ、私より?」

「はいっ!」

「素直でいい子ねー。後で覚えておきない?」

「うぇー。先輩こわーい」

「だいぶ出来上がってきてるわねぇ」


 どうしてか辟易としている先輩の腕に抱きつくと、あっちいけと突き放された。ひどい。


 気分もふわふわしてくると、おのずと口も軽くなっていく。


「凄いですよー。ハル先生の奥さん、十六らんれす」

「十六ね……え、十六歳⁉ それって、まさか女子高生⁉」

「そうれーす!」

「ぶっ⁉」

「あはは。せんぱい、きたーない」


 先輩が驚愕して飲んでいたお酒を吹き出す。テーブルが汚れたが、そんな事はどうでもよかった。


「すごいんれすよー。奥さん。JKなのに私よりしっかりしててー」

「それは奥さんを褒めてるの? 自分を貶してるの?」

「奥さんを褒めてまーす!」

「そう……なんだか可哀そうになってきたわね」


 先輩が憐れみの目を向けてきて、よしよしと頭を撫でてきた。文佳は訳が分からず小首を傾げるばかりだが、人肌が恋しい時にされると気分が良かった。


 されるがままの文佳に、先輩はぐいぐい聞いて来る。


「その奥さん……もしかしてデキちゃった婚とか?」

「それはあたしも最初思ったんれすけどねー。でも全然違うんれすよー」


 うまく呂律が回らなくなってきても、頭が正常に働かなくなっても、少女のあの顔だけは鮮明に思い出せた。


「もうね。あの顔は完全に奥さんの方がハル先生に惚れてますよ……ひっく……乙女の顔でした」

「へぇ。貴方でもそういうの分かるのね」

「バカにしらいれくらさいよ先輩~。私だってラブコメ作家の担当編集者らんれすからねっ」

「そうね。私よりそういうシーン多く見てる貴方が言うなら、本当なのかもね」

「そうれすよ。本当に、先輩にもあの子の可愛い顔見せたかったらー」


 晴の事を話す度に頬が緩んで、思い出を大切そうに語るのだ。


 ――『出会いこそ複雑でしたけど、でも今は、あの時出会えたのが晴さんで良かったと本当に思ってます。私が晴さんと結婚しようと思ったのは、私が晴さんを支えたかったからです』


 本当に十六歳の女子高生の言葉だろうか、そう疑ってしまいたくなるほどに、美月の晴への想いは純粋で、真っ直ぐで、眩しかった。自分がその年齢の頃は、そんな誰かに尽くしたいと思った事は一度たりともなかった。でもそれは、文佳の考えの方が正しいのだろう。あの子はきっと、文佳や他の人たちとは違う生き方をしてきた側の人間だった。


 晴に尽くしたいという想い。それを真っ直ぐにぶつけられたからこそ、文佳はすんなり美月を〝晴の妻〟だと認めてしまったのかもしれない。


 瞼に黒髪の少女を思い浮かべると自然と口許が緩む。その頬を先輩が突いてきた。


「最初は「私がハル先生の作家活動を守らないと⁉」って言って意気込んでたのに、ものの見事に懐柔されちゃったわねぇ」

「うっ……それは私の勘違いれした」


 美月は魔性の女などではなく、誰よりも晴に相応しい女性だった。女性というより、まだ少女と言った方が正しいが。


 そんな黒歴史を掘り返してくる先輩から逃げようとすれば、先輩は蛇のように腕を絡めて逃がしてはくれなかった。


「貴方のやけ酒に付き合ってるんですもの。貴方がその奥さんとした話。全部私に吐きなさい」

「せんぱい、興味あるんれすか?」

「当たり前じゃない。そんなラブコメみたいな話。聞かなきゃ編集者が廃れるわ」


 女子としてよりも、編集者としての好奇心だった。この先輩も例にもれずワーカーホリックなんだと再認識すれば、文佳は「いいれすよー」とこくこくと頷く。


 既に脳が正常に回っていので、晴と美月に『この話は内密にしますから!』という約束はすっかり忘れていた。まぁ、明かして減るものもないだろう。


 それから、文佳は晴の家で聞いた話と美月について先輩に語っていく。今夜は恋に負けた敗北者を労う日。だから、お酒も酔いつぶれても飲む。


 泣いたり、笑ったり、吐きそうになったりして、文佳の夜は更けていく。


 翌日。貴重な休日にも関わらず二日酔いに倒れる羽目になるのは、この時の文佳は今はまだ知らなかった。

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