第84話 『 ええと、許して貴方? 』



 運動が嫌い、という訳ではない。

 ただ、運動をして体力を使った結果、執筆する気が失せるから積極的に体を動かしたくないのだ。


 というか、なんで運動しなければならないのかが不思議だった。体力をつけるために運動するとか矛盾ではないか。体力使うし。疲れるし。汗で肌がべたつくし。


 筋トレも好きではない。翌日筋肉痛で動けなくなるから。

 なんで苦しい思いをしてまで筋肉を増やしたいと思うのか全く理解ができない。自分はマゾではないし、筋肉なんてそもそも必要ない。

 体力の問題は昼寝をすれば回復するし、一日を低燃費に過ごしていれば無問題なはずではないか。


 結論を言おう――運動したくない!


「……逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」


 初号機に乗ってもないのに切羽詰まった顔の晴は、運動しなければ痩せないという事実と戦っていた。


 翌日。取りあえずランニングから始めようと思ったが、面倒くさがりな性格がなかなか足を家から離さなかった。このクーラーの効いた涼しい部屋から一歩も出たくないのが最たる理由だが。


 右往左往している間にも時間は無情にも過ぎていき、生産性のない時間だけが生まれていく。


「明日やろうはバカやろう。それは分かるが……俺はいつから運動が嫌になったんだ」


 動けよ、動けよ、と足に念じても、全然動かない。とりあえず、水を飲んでひと休み。


「どうせやるなら運動も計画的にやるべきだよな」


 背もたれに体重を預けて晴はうなる。

 プールは来月。それに、健康の為なら運動はやはり定期的にするべきだとは思う。

 大人になるとまったく意識的にやらないと運動しなくなるもので、学校であった体育がいかに優秀な授業だったのか身に染みた。ただ運動するだけの授業ではなく、あれは運動を習慣化させる授業だったのだ。


「……ランニングは夜でもいいかと思ったが、アイツにもう迎えに来なくていい、って言われたしな」


 いつまでも晴さんに甘える訳にはいきません、と美月は今月からバイトのお迎えは不要と言い渡たされてしまった。それがさらに晴を外に出さなくなった。

 晴もそろそろ夜道は一人でも大丈夫だろう、と感じていたのでそれに不満はなくすんなりと頷いたが、やはり一抹の不安はあった。

 それも杞憂だと信じて、晴は自分自身の問題と向き合う。


「体重はこの際増えてもいい。が、やはりこの腹だけは締めておきたい」


 今まで体感したことがない、ぷにっとした感覚。触っただけで頬が引き攣った。

 このみっともない贅肉と早くおさらばしたい。となると、


「筋トレか。やはり筋トレ以外の選択肢はないのか」


 組んだ手を眉間にあてて、真剣に考え込む。

 運動したくないし小説書きたいし何より筋肉なんて欲しくない。マッチョなんて執筆の邪魔だ。

 何か、この面倒さも忘れられるくらいの妙案はないものか。

 時計の針の音を聞きながら長考すれば、晴は「あ」と声を上げた。


「……そういえば」


 こういう時に最適なものがあったと思い出せば、晴はテレビ台へと向かった。


「おぉ、やっぱりあった」


 ごそごそと棚を探せば、晴のお目当てであったそれを見つけた。

 晴のお目当て、それはゲームだ。

 無論ただのゲームではない。ゲームをやりながら痩せられるという、画期的なダイエットゲームだ。


「うし、これなら気軽にできて続けられるだろ」


 期待を胸にゲームを起動して、久しぶりにわくわくしながらゲーム画面に食いついた。

 数週間後の自分の姿に胸を馳せながら、晴は何年かぶりの運動を始めたが――。


 △▼△▼△▼



「何してるんですか……」

「……べつに」


 夕方。家に帰ってくるとリビングで旦那が死にかけの虫みたいなポーズで倒れていた。

 ぴくぴくと動く様が本当に寿命が尽きる寸前の虫みたいできもかった。


「ちょっと腕引っ張ってくんない?」

「何してたんですか?」

「何もしてない」


 どうやら一人では立てないようで、美月に救援要請を出してくる。

 呆れながら晴の手を引っ張って上体を起こせば、彼は「さんきゅ」と淡泊に感謝を述べて露骨に視線を逸らした。

 スカートを折りたたみ顔を近づけると、美月は晴に追及した。


「何してたか気になります」

「だから何もしてない」

「えい」

「おいそこはいま触るなっ」


 なんとなくお腹を突けば、晴は苦鳴をこぼす。

 なんだか晴の反応が面白い上に、無性に揶揄いたい欲求に駆られた。


「えい」


 またお腹を突く。するとまた「ぐふっ」と呻き声を上げた。

 やめろ、と顔を全部使って訴えてくる晴に、美月はぞくぞくと何かが込み上がってくる。


 ――なにこの人めっちゃ可愛い。


「えいえい」

「おい、いい加減やめろっ……ぐはっ」

「えいえい」

「そこ、そこダメ……いま突くのナシっ」


 にこにこ笑いながら晴をイジメる美月。

 そうしてあんまり揶揄いが過ぎるものだから、油断したところに腕を掴まれた。


「人がやめろと言ってるのに続ける悪い奴はどこの誰かな」

「わ、私です」


 我慢も限界と言いたげな顔をして、晴はぐいっと顔を近づけると美月を睨んだ。思わず視線を逸らすも、晴は逃がしてはくれなかった。


「ええと、許して貴方?」

「ダメだ。絶対に許さない」


 可愛くおねだりしてみたが、晴には一切効果がなかった。

 何をされるのかと、ごくりと生唾を飲み込む。


「(もしかしてキス⁉)」


 じりじりと近づいて来る顔が、まるで美月を求めているように見えて、反射的に目を瞑る。

 ぎゅっ、と強く目を瞑って、晴からのキスを待つ。

 しかし、晴が美月に罰として要求したのはキスなのではなく、


「悪い嫁にはこうしてやる」

「え⁉ ちょっとそんなリビングで……ってあはは!」


 うっすらと目を開けた瞬間。美月の思惑とは裏腹に、晴は悪戯に口角を上げると唐突にスカートに手を突っ込んできた。

 もしかしてキスよりも激しいこと⁉ と思わず目を開けると、美月のお腹を晴の指が撫でた。そして、十本の指がばらばらにお腹を触ってくる。こしょこしょだった。

 笑いを堪え切れず、美月は目尻に涙を浮かべた。


「は、晴さんっ……ふふっ……お腹、だめです……っ」

「知るか。俺のいうこと聞かずに腹を突いたお返しだ」

「ご、ごめんなさいっ……ほんとに……いまお腹は……あははっ……ダメなんです」

「反論は受け付けませーん」


 涙目で懇願するも晴は罰を続行。笑いを堪え切れず、呂律もうまく回らなくて晴を止めることもできなかった。

 一分。二分ほどやられっぱなしでいれば、やがて満足した晴はジロリと睨んでくる。


「やれる側の気持ちが分かったか?」

「は、はいっ。分かりましたから……だからストップです」


 けれど晴は言う事を聞かずに美月のお腹を触り続けた。こしょこしょではなく優しく撫でるような感覚に、思わず漏れそうになる喘ぎ声を必死に抑える。


「お前の体はやっぱ触り心地が良いな。ずっと触ってたくなる」

「あ、ありがとうございます……んっ」

「もうちょっと触ってていいか?」

「いいですけど……でも、あまり長くは触らないでくださいね」


 晴が嬉しいことを言ってくれるが、今は素直に喜べなかった。


「(気付いていないよね……)」


 一瞬、ドキッと心臓が弾むも、それは自分の勘違いだと安堵する。

 だが、


「ん? なんだこの感触は……」

「――っ⁉」


 指の腹で美月のお腹に触れていた晴が、突然お腹を抓んだ。


「なんかぷにっとしたような……いや気のせいか」

「あわあわあわあわ……っ⁉」


 お腹を抓まれて、冷や汗が流れたと同時に美月の顔から笑みが消えた。

 瞬間。美月の体は無意識に晴を自分から引き剥がすべく、咄嗟に足が伸びていた。


「だから今はダメなんです――――――ッ‼」

「ぐええええ⁉」


 スラリと伸びた白い足と絶叫。それは油断し切っている晴のお腹を思いっ切り蹴り飛ばした。

 ハッと我に返れば、美月は慌てて晴の元へ駆け寄る。


「あ、ごめんなさい晴さん。……あれ、晴さん? 晴さん⁉」

「お、お前……少しは加減しろよ」


 必死に謝るも時すでに遅し。晴は完全に意気消沈していた。

 ぴくぴくと、死にかけの虫みたいに動いて、そして数秒後にはこてんと倒れた。


「晴さん⁉ 晴さ――――――――ん⁉」


 旦那をノックダウンさせた妻は、まるで誰かに旦那を殺られたように叫ぶのだった。

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