第83話 『 二人でたくさん、楽しい思い出を作りましょう 』


「プール、ですか」

「そうだ」


 夜。昼間に慎と話した内容をそのまま美月に伝えると、勉強する手を止めて目をぱちぱちさせた。


「いいですね。是非行きたいです」

「ん。じゃあお前も行くって慎に連絡しとく」


 すんなりと快諾した美月。


 本人の意思確認も済んで、晴はRAINから慎に【美月も行くと】だけメッセージを入れていると、逸らした視線からくすくすと笑い声が聞こえてきた。


「ふふ。まさか貴方がプールに行こうとは」

「意外だという目で見るな。慎に強制連行されるだけだ」

「貴方のことを心配して連れ出してるんですから、感謝しないとダメですよ」


 め、と叱る美月に晴はバツが悪くなる。


「思えば去年もプールに連行されそうになった」


 その時は締め切りやミケのコミケを手伝うからと、あらゆる手を尽くして抵抗したが。


 貴方という人は、と肩を竦める美月は嘆息すると、


「でも、どうしてプールに?」

「海かプールどっちがいいか二択を押し付けられた」

「ふむ。貴方のことだからどうせプールのほうがたくさん小説に使えるものがありそうだ、とでも思ったんでしょう」

「よくお分かりで」


 晴の思考などお見通しでも言うように語る美月に、もはやそれが当たり前のように鼻を鳴らす。


「貴方は小説をエサにすればすぐ釣れますからねぇ」

「おい。人を入れ食い状態の魚みたいに言うな。たしかに小説のネタが作れるなら心揺らぐが、全部に頷く訳じゃない」

「嘘はいけませんよ」

「嘘じぇねえよ」


 ジロリと睨むも、美月は澄ました顔で聞き流す。

 これは何を言っても無駄だなと悟れば、晴は拗ねた子どものように頬杖をついた。

 また、正面からくすくすと笑い声が聞こえる。


「でも、プールですか」

「お前は海のほうが良かったか?」


 美月はそういう訳じゃありません、と首を横に振る。


「私たちの高校、女子はプールが授業にないので」

「男子はあるんだな」


 はい、と美月が頷いた。


「俺の時代は普通に女子も一緒に入ってたけどな。でもま、今のご時世じゃ何かと問題になるから学校側も配慮しなきゃならないんだろうな」

「そうですね。女子更衣室に監視カメラを仕掛けていた教師とかのニュース見るとゾッとします」

「それは男でもゾッするからな」


 ストーカーやら痴漢やら、いつの時代も減ることはない変質者たち。自分たちの欲望に従順する彼らのせいで、時代はどんどん自由を縛られていく。今や、街中に監視カメラが置かれている現代になってしまった。


 美月のような華奢な女の子も、その被害を未然に防ぐためにと行動を制限されてしまう。


 なんとも歯痒い時代になってしまったと耽りながら、晴は美月に一瞥をくれると、


「お前が行き先決めてもいいぞ」

「いえ、プールで大丈夫ですよ。……どっちも変わらないので」

「?」


 何か小言が聞こえた気がしたが上手く聞き取れず眉根を寄せるも、それは柔らかな笑みを浮かべた美月の顔で霧散されてしまった。


「プール、楽しみです」

「そうか。楽しみにしとけ」

「晴さんは楽しみじゃないんですか?」

「普通。このクソ暑い中に外に連れ出されると思うと萎えるけどな」

「日焼け対策、ちゃんとしましょうね」

「ん。頼むわ」


 人任せなんですから、と美月は肩を竦める。

 そんな嘆息のあと、紫紺の瞳は愛し気に細くなった。


「今年の夏は、二人でめいっぱい楽しみましょうね」

「あんまり外に出たくないんだけど」

「大丈夫。縁日に花火は夜ですから」

「家から楽しむという選択肢は……」

「ありません」


 強く否定されて晴は肩を落とす。


 既にその二つの行事も行く事が決定しているかのような物言いに顔をしかめていると、美月はそんな晴に穏やかな声音で言った。


「二人でたくさん、楽しい思い出を作りましょう」

「そうだな」


 淡く微笑む妻に、晴もこういう夏も悪くないと微笑を浮かべるのだった。


 ▼△▼△▼▼


 

「さてと、さっさと風呂入るか」


 プールに行く約束も取り付けて、晴はいま風呂場にいた。


 さっさと今日かいた汗を流そうと上着を脱ごうとした寸前、ぴたりと手が止まった。

 その理由は、


「…………」


 目下に入った体重計だった。


「(そういえば、買ったはいいが一度くらいしか使ったことがなかったな)」


 一人暮らしを始めた頃。一人暮らしといえば体重計はマストだろうと思ってとりあえず買った体重計だが、使ったのは一度切り。


 痩せてるし健康なんてどうでもよかったから放っておいたが、今日は何故か、体重計の存在が異才を放っていた。


 せっかくだし久々に乗ってみるか、と電源を点けてみる。


 ピピッ、と音が鳴ったので、どうやら壊れてなはないようだ。


「たしか前は五十三キロだった気がする」


 成人男性としてはかなり痩せ型だった晴。それは今も変わらないだろうと思って、体重計に足を乗せた瞬間だった。


 ピピッ、と再び電子音が鳴って、計測が終了。


 どれどれと覗き込んだ矢先、目を剥いた。


「ん⁉」


 目下に表示された数字に、見間違いではないかと目をかいた。


 機械が壊れたか、と思ってもう一度体重を計測すれば、また同じ数字が表記された。


「……太ってる、だとっ⁉」


 まさかの事実に唖然とした。


「ばかなっ。太る要因なんて何もないはずだぞ……」


 毎日ちゃんと朝ご飯を食べて、昼食も取って、晩御飯はもりもり食べている。カフェオレなんて飲み物だから実質ゼロカロリーだ。だから太る原因なんて一個も見つからな――


「いや俺めっちゃ食べてるな」


 思い返せばその全部が思い当たる節で、晴は羞恥心のあまり顔を手で覆った。

 そう。美月との生活を送り始めてから、晴は食生活が改善されたのだ。

 毎日きちんと三食。そして運動しない体は、見事に脂肪を蓄えていた。


「思い返してみれば、こんなぷにぷにとした感触、前の俺にはなかった」


 自分のお腹を抓れば、これまでは感じることのなかった柔らかい感触があった。

 ……やってしまった。


「まさか改善された食生活にこんな罠があったとは」


 衝撃を受けているが、全部自分が招いた結果である。つまり、因果応報だ。

 ぷにぷに、とお腹を摘まみながら晴は唇を噛む。


「……さすがに痩せないとマズいよな」


 来月はプールがある。その時にこのぷにっとしたお腹を周囲に見られると思うと、気が引けるし情けない。慎に笑われそうだし、美月には「晴さん……」と幻滅されるだろう。


 妻に幻滅されるのは由々しき事態だし、何よりも晴自身が嫌だった。

 ならばやる事は一つしかないが――。


「運動したくねぇぇぇぇぇ」


 かつて運動部だった男は、大人になってしまった弊害を痛感しながら体重計の前で膝をつくのだった。

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