第90話 『 私を落とす天才なんですから 』
美月が夏休みに入った。
「夏休み入りました」
「そうだな」
月曜日の昼間から美月がいることに違和感を覚えながら相槌を打てば、何故か不服そうな顔をしていた。
「なので構ってください」
「いまの文脈からどこをどう取ればお前を構う答えに辿り着くんだ」
「夏休み=イチャイチャするのが世の常識ですよ」
「そんな常識はない」
妻の暴論に呆れれば、晴は椅子から腰を浮かした。
「どこに行く気ですか⁉」
「仕事だ」
「私と小説、どっちが大切なんですか⁉」
「面倒くさい女感だすな。どっちも大事だ」
平然と答えれば、美月が「はうっ」と照れた。
照れるなら最初から言わなければいいのに、と胸中で思いながら仕事部屋に向かおうとすれば、美月が腰にしがみついてきた。
「ねえぇぇ。晴さーん。もう少し一緒にいましょうよー」
「お前、もの凄い甘えん坊になってないか?」
「夏ですから」
「夏のせいにすんな」
眉間にデコピンを喰らわせれば、美月が「あてっ」とうめいた。
「前のお前はもっと理知的だったぞ」
「誰のせいでこうなったと思ってるんですか」
「十中八九俺のせいではないだろ」
「いえ貴方のせいです」
「責任転嫁にも程があるぞ」
少なくとも晴は美月を甘えん坊にさせることは一切していない。むしろ、晴の方が美月に幼児退行された被害者だ。
しかし、今日は美月の方が幼児退行の具合が顕著だった。
「もっと一緒にいましょうよ~」
「夏休みの宿題は?」
「それは計画的にやるのでご安心を」
そこはブレないのか。
感服しつつ美月を引き剥がそうとするも、相変わらず抵抗する力が強くて晴が先に疲れてしまった。
このままでは執筆できないと悟った晴は、どうしたもんかと思案する。
たっぷり数秒をかけて、晴はぱちんと指を鳴らすと、
「ならリビングで執筆する。それなら文句ないか?」
と提案すれば、美月はぱぁ、と嬉しそうに顔を上げた。
「いいですよ。それじゃあ、私もリビングで課題します!」
「ならさっさと勉強道具持ってこい」
はい、と返事して、美月はようやく晴から離れてくれた。
それから、ぱたぱたと自部屋から勉強道具を取りに行く美月の後ろ姿を眺めながら、晴はやれやれと嘆息。
「……今日からしばらくは、リビングで執筆することになるかな」
残りの七月と八月は、妻のおねだりに応えなければならないのだと、そう痛感すればさっそく徒労感が体を襲った。
「勉強しろよ」
「し、してますよ」
「ダウト。俺見てるのバレバレだからな」
ジロリと睨めば、美月は露骨に視線を逸らした。
そんな分かりやすい妻に嘆息すれば、晴は「好きにしろ」と視線をパソコンに戻しながら言った。
「夏休みなんてまだ三十日以上あるんだからな。最初くらいサボっても問題ないだろお前なら」
「べつにサボってませんし……ただ、晴さんが普段どんな風に執筆してるのか気になっただけですもん」
なるほど。だからさっきリビングで執筆すると言った時、凄く嬉しそうにしていたのか。
ふ、と苦笑がこぼれて、晴は「あっそ」と生返事。
「お前が思っている以上に地味な絵面だからな。執筆してる最中は」
絵面ならサラリーマンの仕事風景と遜色ないと思う。
執筆とは、ただ真っ白なページに文字を打ち込んでいくだけの単純作業だ。
ただし、頭は適切な言葉を記憶の本棚から引っ張り出す為にフル回転だが。
「地味でも構いません。執筆してる晴さんを見ていたいです」
「そーかい。なら好きなだけ見てろ」
「言質取りました。絶対途中で逃げないでくださいね」
「しねぇよ」
そもそも集中しているので、晴は美月の視線など気にも留めずに作業を再開させる。
執筆作業に戻ると、さっそく頭にはキャラクターたちが会話を初めて、視線はパソコンに夢中になった。
タン、タンタン、タタン、とキーボードを打つ音が静かな空間に響く。
「……ふむ。ここはこうするか」
天才作家、と謳われても全ての設定が頭に入り込んでいる訳ではない。どうしても忘れてしまう部分があるため、晴は原稿とは別に資料用のデータも作っている。〝プロット〟と呼ばれるもので、舞台背景や登場人物の名前や性格、簡略化させた章ごとの設定を纏めているのだ。
それをたまに開いて、現在進行形の原稿に必要な情報を足していく。
小説とは〝無〟から生み出される〝有〟だ。真っ白なページに、文字で世界を創っていく。
頭はくたくたになるし、肩凝りもひどくなる。時折書くのも面倒になるけど――でも、
「うん。面白い」
無意識に頬が緩む。
自分にしか創れない〝世界〟があるから、小説はやめられない。
漫画家が絵と言葉で世界を表現するなら。
イラストレーターが絵だけで世界を表現するなら。
小説家は――文字だけで世界を表現する。
文字を読むだけで面白い世界を創れるのが小説家で、その世界を広げるのが読者だ。
作者の想像だけでは完結しない世界。それが、小説だ。
その快感に浸れるのは、物語を作る者たちの特権だ。
そんな快感に手を走らせる晴を、妻はというと、
「むぅ」
なにやら不満そうな顔で見ていた。
そんな美月の顔が視線に入って、晴は思わず執筆する手を止めてしまった。
「どうした?」
「……べつにぃ」
と言いつつも、やはり不満そう……というか拗ねた風にそっぽを向いている。
不快にさせる要因でもあったかと眉根を寄せれば、美月はぷくぅ、と頬を膨らませて、
「小説を書いてる時の晴さん……すごく楽しそうに書いてるなと」
「まぁ、楽しいから書いてるしな」
そう答えると、膨らんでいた頬がまた大きく膨らんだ。なんだかハリセンボンみたいだ。
「……私と一緒にいる時より楽しそう」
「なんだ小説にヤキモチか」
そんなことかと呆れてしまった。
「俺が執筆バカなのはもう知ってるだろ」
「それはそうですけど、でも、やっぱり晴さんの一番は私がいいです」
「安心しろ。小説の次にお前が大事だ」
「それ照れるラインか微妙なんですけど。個人的にはお前二位だと告げられて悔しいほうが勝ってるんですけど」
厳しい視線を向けてくる美月に、晴はそんな妻が用意してくれたコーヒーを飲みながら答えた。
「誇ってくれ。小説は俺にとって譲れないもの。その譲れないものの次……いや、ほぼ同率でお前のことは大事だと思ってる」
一位と二位。それは僅差だ。誤差でもいいかもしれない。
いまや、美月は晴にとってかけがえのない存在となってしまった。
それを吐露すれば、美月は「なにそれ反則⁉」と顔を手で覆ってうめいた。
「お前って実はすごくちょろいよな」
「いつもぶっきらぼうで淡泊な貴方からそんな言葉出ると破壊力が凄いんです」
自覚してください、と叱責されるも自覚がないから無理だった。
「本当に貴方という人は……」
「呆れたか?」
「違います」
ゆるゆると首を横に振ると、美月は頬を朱に染めながら、
「私を落とす天才なんですから」
晴の言葉だから嬉しくなってしまうのだと、そう言いたげに美月は破顔する。
でもやっぱり、嬉しさよりも小説に負けた悔しさが勝るようで、
「いつか絶対、小説より私のほうが大事だと言わせてみせますからね」
「そうか。楽しみにしてる」
やる気マンマンな妻の挑戦状に、晴は相変わらず淡泊に返しながらも、口許をほんのりと嬉し気に緩めるのだった。
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