第89話 『 ほら私、制服ですし…… 』



 美月がいよいよ夏休みに入る金曜日。

 しかし、晴たち大人には夏休みはない。あるのは仕事。そして晴の仕事といえば、言わずもがな執筆だ。

 慎の執筆ペースは知らないが、晴の方は快調だった。


『 「俺は、詩音のことが好きだ!」

「……っ!」


 強く、自分の胸を叩いて想いを吐露すれば、詩音の瞳から一筋の涙が伝った。


「時雨家とか、キミの将来がどうでもよくなった訳じゃない。でも! 俺は詩音を好きだって気持ちを諦めたくないんだ!」


 この恋情を諦めることが、正解じゃなかった。

 この気持ちを肯定し続けることが正解なんだと、あの日キミに教えてもらったから。


「だから、詩音。もう一度俺と付き合ってくれるか?」


 この屋上は、初めて詩音から〝好きだよ〟と伝えられた場所。

 今度は傑が、詩音に〝好きだ〟と伝える番だった。


 何回でも。何度でも。


 ありたっけの想いを乗せて伸ばした手に、詩音は涙を流しながら頷いてくれた。


「うんっ! 私も……傑とまた一緒にいたいっ!」


 これからの困難。

 まだ問題は山積みだけど。

 けれどきっと二人なら乗り越えられる。

 不思議とそんな自信が涌くから、傑は詩音が握り返した手を引いて、抱きしめる。


「もう放さない。ずっと一緒にいよう、詩音」

「うん! うん! 一緒にいよう、傑っ!」

 夕景が魅せる屋上で、傑と詩音は再び恋人として絆を結んだのだった――」 』


 タン、とエンターキーを押して、深く息を吐いた。


「最高だ」


 盛り上がる場面を書けたと自負するように、晴は思わずニヤリと笑ってしまった。

 最終章。一度は詩音の将来を想って別れた傑が、自分の恋心に気付いてもう一度詩音に想いを伝えるシーン。その道程も含めて、これまでになく感動的な告白になったと思う。

 こういうのがあるから小説家はやめられないし、ラブコメを書いてて気持ちがいいのだ。


「……今週はわりと進んだか」


 肩の力を抜きながら原稿をチェックすれば、なんと【50ページ】ほど書いていた。文庫本のページ数は【150ページ】が目安なので、いまは丁度折り返し地点といったところだ。

 文佳の原稿チェックが入るのが来月頭なので、締め切りまではまだ二週間ある。晴は速筆家なので、残りの原稿量なら三日もあれば終わる。多く見積もって一週間あれば、確実に終れた。


「ま、特にやることもないし、美月の相手か新作の構想でも練るか」


 次回の会議の時にでも新作を出したいといえばすぐに許可が下りると思うので、今のうちに短編か連載のいずれかの設定を作っておこうと念頭に入れておいた。

 とりあえず今日は最高のシーンを書けたから充分、とパソコンを閉じれば、入れ替わるようにスマホの電源を点けた。


「十六時……そろそろ帰ってくるかな」


 すでに学校が終わって、電車にも降りているだろう。

 とりあえずリビングでコーヒーを飲みながら待っていようと、晴は扉を開けた。


 △▼△▼△▼



 美月がなかなか帰ってこない、ということは今晩の食材を買っているのだろう。


「…………」


 だったら連絡の一つくらいくれ、と思ったが、今までそんな要求をしてこなかったので連絡がないのも当然だった。


「(なんか最近、いつも以上にアイツのことを考えている気がする)」


 暇なので頭に思い浮かんだ作品をノートに書き出しているが、少し気を緩めると美月のことを思案しまっていた。


「……なんなんだこれ」


 訳の分からない感情に戸惑いっぱなしだった。

 これではまるで、晴が美月を大好きみたいではないか。先月の自分を振り返ってみれば、こんな風に思考が美月で埋め尽くされることはなかった。


 これが恋、というやつなのだろうか。


 ラブコメ作家というのに、未だにその感覚を掴めないで悶々としていると、玄関が開く音がした。

「ただいまー」と声が聞こえた。

 ぱたん、とノートを閉じれば、晴は妙にそわそわしていた。

 それから数十秒経てば、美月が廊下から姿を現わした。


「今日から夏休みです!」

「楽しそうだな」


 ただいま、よりも早く、夏休み到来の美月でわずかに喜々とした顔で登場した。


「おかえり」

「あら珍しい。貴方のほうから挨拶してくれるなんて」

「バカにすんな。俺だって挨拶くらいできる」


 大仰に驚いてみせる美月に口を尖らせれば、くすくすと笑われた。

 それから、美月は「ただいま」と微笑みを魅せると、エコバッグを持ってキッチンへと向かった。やはり、美月は晴の予想通りスーパーに寄っていた。

 美月の考えもだいぶ分かるようになった、と妙な成長を実感していると、背中を向けたまま美月が話掛けてきた。


「今日チラシ見たら十五時からアイスのタイムセールだったんです。これからもっと暑くなるし、買いだめして損はないかなって」

「ふーん。争奪戦だったか?」

「金曜日でしたからね。自分と同じ考えの主婦と戦ってきました」


 それでもいっぱい買えましたよ、と弾む声音に、晴は「相変わらず強かな女」と唇を綻ばせる。

 頬杖をつきながら揺れるポニーテールを眺めていると、何故か体がむずむずした。


「(おかしい。自分がなんか変だ)」


 束ねた黒髪から覗くうなじに、ごくりと生唾を飲み込む。おかしい。これではまるで、自分が変態ではないか。いけないと自分を戒めるも、やはり体はいう事を聞かなかった。


「(あぁ。なんで体が熱いのか分かった気がする)」


 なんでずっと、美月のことを思ってしまうのか。ようやく理解できた。

 それは美月が好きだというのも一理ある。がしがし、それ以上に体が美月を求めようとするのは、さっき書いた原稿のせいだと気付いた。


「(そういえば、書き始めた頃はよく萌えるシーン書いて興奮してたっけ)」


 いつかの日を思い出しながら、晴は音もなく美月に忍び寄る。

 そして、気が付けば後ろから美月を抱きしめていた。


「わっ……びっくりしました」


 美月が驚いた声を上げて、困惑した。


「もう、そんなに私に会えなくなくて寂しかったんですか」

「寂しくはない」

「離れてくださいっ」


 意地悪な笑みを浮かべる美月に淡泊に返せば、ご機嫌斜めになって腕を振り解こうとしてくる。

 腕の中でジタバタする美月。そんな彼女の耳を唐突に甘噛みすると、途端に抵抗力が弱まった。


「ひゃんっ……なんで、耳食べるんですか」

「こうしたら落ち着くと思ったから」


 思惑通りでちょっと笑いそうになった。

 矯声を上げた美月は、やれやれと肩を落とすと落ち着きを取り戻して声音で聞いてくる。


「晴さんが自分から抱きつくなんて珍しいにも程がありますね」

「俺だって甘えたい時くらいある」

「ふむ。ということはつまり、今は甘えたいと……本当に何があったんですか⁉」


 素直に首肯すれば、美月が目を白黒させる。

 晴さんらしくない、と驚く美月に、晴は「うるせぇ」と穏やかな声音で反発すると、


「さっき、執筆してたんだ」

「はあ。それで?」

「自分の書いたキャラクターが盛り上がっているシーン書くと、どうやら作者の体も興奮するらしい」

「そうなんですか?」


 よく分からない、と小首を傾げる美月に、晴はそうだと頷いた。


「忘れたけど、思い出した」

「……誰のせいで、ですか?」

「お前のせいだ」


 悪戯に問い掛ける美月に、晴は顔を俯かせたまま答えた。

 それから、晴は顔を俯かせたまま美月に訊ねた。


「お前、明日から夏休みなんだよな?」

「そうですよ。いっぱい晴さんといられます」

「俺は仕事あるけど」

「締め切りも大事ですけど、私にもちゃんと構ってくださいね」

「分かってるよ」


 少しだけ拗ねた風に言った美月に、晴は苦笑をこぼす。


「今年は好きな人とずっと一緒にいられるので楽しみです」

「そうだな。俺も久しぶりに楽しみだと思える」


 これが良いムードだと感覚で分かった。だから、晴の方に振り向いた美月の顔が、何を言いたいのかは言葉なくとも理解できた。


「――――」

「――――」


 互いを見つめたまま、晴と美月は唇を重ねる。

 唇が離れると、美月の顔が赤く火照っていた。


「さっき俺の言ったこと、覚えてるか?」

「ええと、キャラクターがイチャイチャしてると興奮するって話ですか」


 正解、と晴はまた美月の唇を奪う。


「んっ。……今日の晴さん、本当にいつもと違います。いつもの貴方はこんなに甘えてきませんよ」

「仕方ないだろ。今はどうしようもなく、人肌が恋しいんだ」

「貴方も人肌を恋しいと思うことがあるんですね」

「俺をどんな奴だと思ってんだお前は」

「淡泊な人」


 この野郎、と美月の頬を抓む。


「(あぁ。コイツって可愛いんだな)」


 やめへくらはい、と呂律が回らない美月。不覚にもそう思ってしまった。

 頬を抓るのを止めれば、晴はさらに強く美月を抱きしめる。


「気持ちいですか?」

「あぁ、抱き心地がいい」

「ふふ。素直な貴方は可愛い」

「男に可愛さ求めんな」


 揶揄って来る美月に、晴は口を尖らせる。


「(体が、言うこと聞かないな)」


 こうやって美月を抱きしめていると、もっと美月と体を重ねたくなってしまう。

 たくさん愛してやりたいと胸が騒がしくなる。

 それは、言葉となって吐露された。


「明日から夏休み。ということは時間はたっぷりあるということだよな」

「……なんだか嫌な予感がするんですが」


 不穏な気配を察知した美月は、晴の腕から逃げようとする。逃がさない。

 ギュッ、と強く抱きしめれば、美月は顔を真っ赤にして狼狽した。


「は、晴さーん?」


 とんとん、と腕を叩かれるも気にしない。


「先週はパーティー開催されたせいでできなかった。……いやあんまりするのもよくないから自制してたんだけど」

「なに言い訳してるんですか」


 華さんと約束したから、あんまり美月を愛さないように努力はしないといけない。

 好き勝手に愛してしまうと、それこそ本当に愛の結晶が出来てしまいそうだ。

 でも。今日は。


「二週間待った」


 晴の言葉に、美月がもうそれしかないと言いたげに生唾を飲み込んだ。


「晴さーん? 今はまだ夕方ですよー? さすがにいくらなんでも早すぎだと思うんですけど」

「なら晩御飯食べ終わるまで待てと?」


 生殺しだ、と目で訴えれば、美月がたじろいだ。


「ほ、ほら私、制服ですし……」

「どうせ脱ぐんだから問題ないだろ」

「で、でも晩御飯の準備だってしなくちゃいけないのに……」

「今日は出前でもとるか」

「もうやる気満々ですね⁉」


 美月に心を開かされてしまったのだから、仕方がない。


「大丈夫。手加減はする。だから美月」


 わざとらしく甘い声でおねだりすれば、美月は「むむむ」とうなった。

 それから数秒黙考すると、ため息が聞こえた。


「はぁ。これが本当の晴さんなんですかね」

「なんだそれ」


 妙な納得をした美月に眉根尻を下げれば、やれやれと肩を落として、


「本当の貴方は甘えん坊ですごく寂しがり屋なんだなって」

「甘えん坊で悪かったな」

「いえいえ。凄く可愛いですよ」

「男に可愛さ求めんな」

「可愛いのは事実です」


 美月は嬉しそうに晴の頭を撫でてきた。

 それから、美月は逡巡を孕ませながらも、


「するのは、いいです」


 なんと晴の要求に応えようとしてくれた。

 でも、と美月は一度晴を制すと、


「シャワーを浴びさせてください。汗臭いので」

「構わない」

「いや私が気にしてるんですけど⁉」


 どうしても匂いが気になる年頃の乙女は、必死にシャワーに向かおうと逃げようとする。

 そんな美月を逃がさずに、晴はぺろりと白い首元を舐めると、


「ひゃん! ……い、いきなり舐めないでください」

「ちょっとしょっぱい」


 当たり前でしょバカッ、と強めに怒られた。

 けれど、晴は怒られこともお構いなしに美月をさらに強く抱きしめる。


「俺はいますぐお前を抱きたい。ダメか?」

「むぅ……そんな顔でお願いされたら否定できなくなるんですけど」

「よし決まり」

「あ、いま嵌めましたね⁉ イジワル! 執筆バカ!」

「やー、なんのことかさっぱり分からないな~」


 ぷりぷりと頬を膨らませる美月にしらを切る晴は、怒った顔にキスをする。

 長い熱い――愛情を注ぐキスを。

 その怒った愛らしい顔が溶け切れば、晴はぷはぁ、と息を吐いて、


「今日はたっぷり、お前を愛してやるからな」

「いまそれはズルすぎですって――あっ」


 実にラブコメ作家らしい殺し文句を放ちながら、妻を陥落させたのだった。

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