第44話 『 人前でイチャつかないでえええええええ⁉ 』
数分ほどリビングで待っていれば、ようやく晴がやって来た。
「すいません。少し準備に手間が掛かってしまって」
「いえいえ! 全然気にしないでください!」
病院でのお見舞いぶりに晴に直接会えば、文佳は編集者の顔ではなく女の顔で晴との再会に歓喜した。
先程の荒んだ心は晴の顔で浄化され、今は清らかな気持ちで晴の隣にいる嫁こと美月を見れる――と思っていたのだが、
「昨日ちゃんと寝てくださいと言ったでしょう。誰ですか、土曜日家で会議やるって言ってたのは」
「俺だな」
「自分で言ったくせに深夜まで執筆するのは呆れます」
「仕方ないだろ。ちょうど書ける気分だったんだから」
「だからって書きますか、普通」
「どんな時でも書けるなら書く。それが俺だ」
「はぁ、本当に貴方という人は」
と夫婦喧嘩の一幕を見せつけられて頬が引きつった。
「(ここで夫婦感出すなぁぁぁぁぁぁ⁉)」
なぜこの場で夫婦の会話を広げる必要があるのか、文佳にはさっぱり理解出来なくてまた精神が荒れ始めた。
「本当に仕方ないですね、晴さんは」
「言うな。自覚してる」
ふふ、と微笑む美月がなんとも腹が立つ。なんだその旦那の生活は私が管理してるんですからね、みたいな微笑みは。嫁か、嫁なのか。嫁だった。
美月に激しい嫉妬心を向けていると、夫婦喧嘩を終えた晴が申し訳なさそうな顔で言った。
「すいません。はしたない所をお見せしてしまって」
「い、いえいえ。どうぞ私にお構いなくー」
引き攣りそうな頬をどうにか堪えて、文佳は平常心を装いながら返答した。
「(今すぐ帰りてぇぇぇぇぇぇ⁉)」
もう仕事を放り出してすぐに家に帰って酒を飲みたい気分だった。ただ飲むだけは足りない。浴びる程飲みたかった。とりあえず、今夜は会社に帰ったら同僚か先輩を誘って飲みに行く事は決定した。
「(あぁ、めっちゃカレシ欲しいぃ)」
カレシがいたら、こんな感情にはならずに済んだのだろう。
途方もない虚しさに涙まで零れそうになってくると、晴が「それじゃあ」とダイニングテーブルに手を差し出して、
「さっそく会議始めましょうか」
「……はいっ」
すっかり本来の目的を忘れていて、それを慌てて思い出せば文佳は強く頷いた。
煩悩を振り払えば、頭を仕事モードに切り替える。死ぬ気で。
「美月。飲み物用意したら部屋に行っててくれるか」
「分かりました」
仕事モードに切り替えている最中、二人の会話に聞き耳を立てる。すんなりと晴の要望に応えた美月に文佳は聞き分けのいい子だな、と思わず感嘆としてしまった。
「(いかんいかん。相手は小悪魔。心を許してはダメよ、文佳)」
美月への評価が覆りそうな寸前で、頭を振って更新を留めた。
そんな文佳に、美月は柔和な笑みを向けると、
「そうだ。そういえばまだ担当さんのお名前を窺ってませんでした。差し支えなければ、教えていただいてよろしいでしょうか?」
「あ、文佳と言います。四条文佳です」
「四条さん。改めて、八雲晴の妻、八雲美月です。宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げた美月に、反射的に文佳も頭を下げた。そして、スーツの胸ポケットから名刺を取り出すと、それを美月に渡す。
礼儀が正しい上に礼節も弁えていて、いちいちこちらの調子が狂う。この美月という少女、中々に手強い女だと悟った。
しかし根は良い子そうだ、と僅かに敵対心も収まれば、そんな文佳に美月が窺った。
「飲み物。何がよろしいですか? 色々と用意してありますので、気軽に注文してください」
「ええと、何がありますか?」
「そうですね……」
どうやら美月はこの日の為に準備してくれていたようで、カフェオレやらコーヒーやらハーブティなどと品数が喫茶店並みに用意されていた。
もうメニュー表をくれ、と胸中で思いつつ、文佳は「それじゃあ」と指を立てて、
「ブラックのコーヒーをください」
「畏まりました……あっ」
なんだか店員みたいな承諾の仕方だな、と思っていると、美月がやってしまったと口に手を置いた。
「すみません。つい癖で」
「お前も十分ワーカーホリックだな」
「むぅ。晴さんほどじゃありません」
失笑すれば美月が悔しそうに頬を膨らませる。
「俺は書かないと死ぬからな」
「そうでしたね。ふふ、なんだかマグロみたい」
「マグロって泳いでないと死ぬらしいな。泳ぎ続けてないと呼吸できないらしい」
「へぇ。そうなんですね。流石は晴さん」
「この前気になって調べた」
「どんな生活したらマグロの生態が気になるんですか……」
二人だけの会話なので、当然文佳は蚊帳の外だった。
「(イチャイチャするなぁぁぁぁぁ⁉)」
どうやら夫婦仲は良好なようで、その事実がさらに文佳の神経を逆撫でる。
頬を引き攣っていると、美月が「失礼しました」と一礼して、
「話が脱線してしまいました。ええと、四条さん、コーヒーはホットとアイスどっちがいいですか?」
「え、ええと……じゃあ、アイスで」
「分かりました」
晴との会話を中断させて、美月は柔和な表情で承諾した。
「晴さんはどうしますか?」
「俺はカフェオレにしてくれ」
「分かりました。ふふ、本当に好きですね、カフェオレ」
「美味いしな。糖分もあるから執筆に丁度いんだよ」
「糖分補給は大事ですもんね」
これは晴へ飲み物の確認をしている。そうだと分かっているのに、心が追い付かない。
「ほれ、早く用意してくれ」
「はいはい。まったく、人使いが荒いんですから」
「悪いとは思ってるし、感謝もしてる」
「もう。調子がいいんですから」
そっぽを向きつつも、美月の顔は朱に染まっている。それが晴の迂遠な感謝で高揚しているのだと、同じ女にはすぐに理解出来た。
理解できているからこそ、
「(お願いだから人前でイチャつかないでぇぇぇぇぇぇぇぇ⁉)」
まだ会議は始まってすらないのに、文佳の心はすでに疲労困憊だった。
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