第176話 『 もっと注いでくれないと困りますよ 』


 扉を閉じて玄関の空気を吸えば、ここはもう自分の居場所なんだと不思議な感覚が胸に満ちた。


「トランク、持ってくれてありがとうございます」

「これくらいどうってことないからな」

「いつも運動頑張ってる証拠ですね」


 微笑みながら晴の腕を掴めば、出会った頃と比べて頼りになる逞しい筋肉が付いていた。

 彼が美月の美味しいご飯を食べる為に、好きではない運動を続けているのは知っているが、結果として健康であることを保とうとしているのは素直に嬉しかった。

 旦那が健康でいてくれるのは、美月としては妻冥利に尽きた。


「私の作ったご飯のおかげでこの筋肉ができてるんですからね」

「分かってる。いつも栄養管理ちゃんとしてくれてありがとな」

「ふふ。もっと褒めてくれればおかずを増やしてあげますよ?」

「可愛い」

「もう一声」

「最高の嫁だ。あと胸もでかい」

「減点」

「なんでだよっ」


 余計な一言を加えた晴に厳しい評価を下せば、彼は口をへの字に曲げた。

 やっぱりおっぱい星人、と嘆息をこぼして、


「貴方はもう少し妻への褒め方を勉強するべきですね」

「これでもクリティカルヒットは何回も出してるはずなんだがな」


 たしかに不意打ちは何度もくらっている。

 それに、と晴は口角を上げると、


「愛情はちゃんと行動で示しているはずだよな?」

「むぅ。その言い方ズルい」


 挑発的に言う晴に、美月は悔しくなって頬を膨らませる。


 彼の言う通り、美月への愛情はしっかり行動で示されている。デート然り共寝然り。ハグだったりキスだったり――それ以上のことも。


 言葉だって淡泊でありながらも、そこに裏表がないことは美月がよく分かっている。


「貴方は最近、私に愛情を注ぎ過ぎでは?」

「嫌なら減らすが……」

「何言ってるんですか。もっと注いでくれないと困りますよ」

「どっちなんだよ……」


 美月に振り回されて、晴は肩を落とす。

 そんな晴に、美月はくすくすと笑った。

 晴からの愛情表現が、美月のストレスや疲労を最も回復させる効果があるのだ。


「今日はお風呂も一緒に入ってもらいますからね」

「へいへい」


 適当に返事する晴に、美月は顔は平然を装いながらも内心ではガッツポーズ。


「あとマッサージもしてもらいましょうかねぇ」

「ま、たまにならいいだろ」

「あら、今日は大盤振る舞い」


 わざとらしく驚けば、晴は「今日くらいはな」と素っ気なく返した。


 意外にもこういう日が多いとは自覚していないようなので、美月は晴に甘える為にそれは黙っておくことにした。


 ただ、今日はやたら美月のおねだりを聞いてくれるのは不思議で。


「もしかして、私が四日間もいなくて寂しかったんですか?」


 にまにまと悪戯な笑みを浮かべながら挑発的に問い掛ければ、晴はジッと見つめながら答えた。


「寂しかったぞ」

「おおぅ。そこで急に素直になられるとこっちが照れちゃいますね」


 晴としては思ったことを口にしたまでなのだが、美月にとっては破壊力抜群の返しだった。

 照れもなく平然としままの晴とは対照的に、美月は真っ赤にした顔を両手で覆う。


「なんで照れるんだ?」

「貴方が私がいなくて寂しいと思うなんて想像もしていなかったので、ちょっと予想以上のダメージを受けています」

「寂しいに決まってるだろ。いつも食ってる美味いメシが四日もお預けだったんだから」

「そっち⁉ ……はぁ、照れて損した」


 やっぱり美月より食を優先していた晴に、辟易とした風にため息がこぼれた。

 少しだけしょんぼりとしていると、不意に隣から小さな笑い声が聞こえてきて。

 ふと晴を見れば、美月の頭にぽん、と手が置かれた。


「嘘だよ。お前がいなくて寂しかった」

「――っ」


 その優しい微笑みに、紫紺の瞳が大きく揺れる。


 ここが美月にとっての居場所であり、そして晴の居場所には美月がいる――それを実感した瞬間、嬉しさは抑えきれなくって。


「ふふ。ならその寂しさが埋まるよう、今日と明日はずっと一緒にいなきゃですね」


 溢れる微笑みに、晴も口許を綻ばせて、


「お前が満足するまで一緒にいてやる」


 温かい手の感触を堪能しながら、美月は自分がいるべき居場所に帰ってきたのだと、そう強く実感した。

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