第35話 『 うちの子、おっぱい大きいわよ 』
それから暫く時が経って、晴は華と二人きりになっていた。
「そうそう。晴くん、怪我の具合はもう大丈夫なの?」
「おかげさまで。後遺症もありませんでした」
それは良かった、と華が安堵して、それから、
「本当に、その件に関してはごめんなさい。結果こそ無事だったけれど、最悪の場合、晴君が死んでもおかしくなかったわ」
「謝らないでください。俺も美月も無事だったんですから」
頭を下げた華に慌てて顔を上げてもらえば、晴は続けた。
「俺のことよりも、娘を心配してください。あいつの方がよっぽど怖い目に遭ったんですから」
「優しいわね、晴くんは」
「当然の配慮ですよ」
入院中も何度か華は見舞いに訪れてくれたが、晴としては大事な一人娘を心配して欲しいのが本音だった。親として、一番に美月を想ってくれて欲しい――自分の薄情な家族とは違って。
その想いを吐露すれば、華は「ありがとう」と小さく感謝の述べてくれた。
「貴方になら、娘を任せても問題なさそうね」
「そう言って頂けたら何よりです」
任さられても責任を全うできる自信はないし、なんならこれからお世話されるのは晴の方なので華の信頼の眼差しが少し痛い。
内心を隠しながら苦笑をこぼすと、華は声音が落とした。
「晴くんには最初に会った時に話してるわよね。私たちのことは」
はい、と晴は静かに肯定する。
「私と旦那は、美月がまだ小学三年生の時に離婚したわ」
華の言葉に耳を傾けながら、晴は回想した。
美月が生まれる前までは、華とその旦那は夫婦円満だったらしい。しかし、美月が生まれて、そして華も仕事に復帰してから旦那との溝は深まり――最終的に美月の父親は他の女を作って出て行ってしまったそうだ。
当時、幼い子どもだった美月は父親が目の前から消えた事にどんな心境を抱いていたのだろうか――そして、それを知る権利は、果たして晴にはあるのだろうか。
葛藤と共に、華の弱々しい声音が耳朶に届く。
「私は仕事が忙しくて、ずっとあの子に構ってあげられなかった。運動会も、文化祭の時だって行けなかった。それでもあの子は文句を言わずに私の為に毎日ご飯を作ってくれて、心配しなくていいよ、って気遣ってくれたの。あの子をずっと独りにしたのに、あの子に我慢させてた私は、あの子の親失格なのよ」
華はそう自嘲した。
美月の達観した性格は、そんな孤独の中で完成されていったものだろう。どうりで晴に尽くし、文句を言わずに黙々と家事をするはずだ。それを人は〝慣れ〟と言うのだろう。最も恐ろしい、無自覚の病だ。
だから、と華は続けた。
「あの子がいきなり結婚したい相手がいるって紹介してきた時、本当はもの凄く反対したかった。でも、そんな資格、私にはなかった。あの子の親なのに、大好きな愛娘なのに、親の義務を何も果たせなかった。そんな私が、あの子の望みを否定する権利なんてなかったのよ」
「……華さん」
華の胸襟に、晴はどう答えるのが正解なのか戸惑う。
何を言えば華は、罪の意識から解放されるのだろうか。
美月は、母親を恨んでなどいない。むしろ、好きだ。
それを、どうすれば部外者が伝えられるだろうか。
葛藤と苦悩を重ねた末に、晴が華へ告げた言葉は――
「安心してください。華さんは、ちゃんと美月の母親です」
「――――」
晴の言葉に、華が目を見開いた。そんな華に、晴は今日、この家に来るまでの時間を思い出しながら言葉を紡いだ。
「ここへ来る前、美月が言ったんですよ。私のお母さんだから絶対承諾してくれるって。それって、美月が華さんを見てないと分からないことだと思うんです」
血の繋がった家族だからこそ、華の娘の美月だからこそ、そう言ったのだと思う。
「いつも仕事で頑張ってる華さんの為に、美月は料理を続けてたと思うんです。少しでも美味しいご飯を作ろうって、お母さんを励まそうって」
「どうしてそう思うの?」
「分かるんですよ、俺も同じだから」
執筆が終わった時、美月はいつもテーブルに料理を並べて待ってくれていた。そして温かいご飯と味噌汁を用意してくれる。それが、美月なりに仕事で疲れた晴への労いと励ましの方法なのだろう。
美月が料理を作るのは、誰かを元気づける為だ。だから、美月が作るご飯は美味しいのだろう。お疲れ様、とそんな想いがご飯に籠っている気がした。
「(だからか。俺があいつの料理が食べられるのは)」
晴の胃がすんなりと美月の手料理を受け入れたのは、そんな想いが込められていたからだろう。ほぅ、と心の底から脱力できる気がするのだ。
ようやく理解すれば、晴は真っ直ぐに華を見つめて言う。
「あいつは嫌いな人の為に何かしたりしません。好きだから、華さんの為に頑張ってたと思うんです。あいつの華さんへの気持ちを、どうか勝手に決めないでください」
「――――」
「二人は、ずっと家族なんですから」
時間があれば、二人はきっと笑い合える家族になる。だって、美月は母親の事を尊敬しているし、大好きなのだ。そして、その気持ちは華も一緒で。
だから、二人には家族としての絆を強く結んで欲しかった。
そう懇願すれば、華は――
「ふふ」
と可笑しそうに笑った。
何故、と目を瞬かせていると、華は紫紺の双眸を細めて。
「貴方が美月の夫で良かったわ」
「それは、どういう……?」
なぜいきなりそんな事を言われたのかと戸惑っていると、華はくすくすと微笑みながら、
「あの子の事をちゃんと想って、そして考えてくれている」
「それはまぁ、美月の夫になるんですし当然だと思いますが……」
「最近の夫婦はそれができない人たちが多いそうよ?」
美月みたいな言い回しだな、とつい苦笑がこぼれた。なるほど、そこは母親譲りらしい。
だからか、晴は自然と返答する事ができた。
「なら俺たちはしていきますよ」
「男前ね」
「男ですから。まぁ、頼りなくは見えますけど」
「そんなことないわ。私が旦那にしたいくらい」
それは冗談だよな、と思ったものの、華の表情が読めなくて苦笑をこぼすしかなかった。
それから華は、ふふ、とたおやかに笑うと、
「ありがとう、晴くん。貴方の言う通り、もう少し、あの子に接してみるわ」
「はい。そうしてください」
美月とそっくりな微笑みを浮かべる華に、晴は口許を緩めたのだった。
▼△▼△▼▼
「そういえば晴くん、もう一つ私から言っておきたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
そろそろ美月も帰ってくる頃合いで、華が唐突に指を立てた。
「もう重々理解してると思うけど、美月はまだ学生なのよ」
「はい。知ってます」
その事実は今更だ。
「私としては、べつにそういうことは全然してくれて構わないと思ってるんだけどね」
そういう事、とはなんだろうか、と眉根を寄せていると、華が声音こそ穏やかなものの凄まじい圧を放って言った。
「学生のうちに孫が生まれる、なんて事態は避けてほしいの」
「ぶっ⁉」
華の言葉にむせ返れば、晴はケホケホッ、と咳き込みながら、
「そ、それは重々承知してます……はい」
「そう。なら良かったわ」
そういう事、とはつまり夫婦の営みということか。もっと具体的に言えば、セッ○スだ。
時たまに学生のうちに妊娠した、なんてニュースは目にするが、それが晴の身に起これば戦慄なんてものではない。たぶん、卒倒する。
晴の感じている恐怖とは裏腹に、安堵する華がさらに訪ねてきた。
「ところで晴くん、ぶっちゃけうちの娘とはもうやったの?」
この母親怖い。
何食わぬ顔で聞いてきた華に晴は咳払いすると、
「い、いえ。まだそういった行為は及んでおりません」
「なんでちょっと取り調べみたいな口調で言ってるのよ。してないなら普通にそう言えばいいのに」
あらあら、と華が手を当てて吐息した。
「晴くんは見た目通り奥手なのね」
「見た目通りですいませんね」
大人としては至極真っ当な判断だと思うし、むしろ華の大事な一人娘に気軽に手を出さなかったことを褒めて欲しいのだが。
「私が言うのもなんだけど、うちの子、おっぱい大きいわよ」
「そ、そうなんですか」
自分はいま何をされているのだろうか。嫁の母親が嫁の胸の大きさを語っている。
なんとなく視線を合わせづらくて逸らしていると、華がふふ、と小悪魔的に微笑みを浮かべながら、
「もう合法なんだし、いつでも娘を抱いていいからね。あ、でもちゃんと節度は守ること! 避妊もしてね! 義母との約束よ!」
「はい、分かりました」
義母にそっち方面の承諾ももらって、残すは晴の覚悟だけになった。
愛し合うのはおろかキスもまだな事を言えば絶対に何かしら小言を貰う気がしたので、晴は大人しく美月の帰りを待つことにしたのだった。
「(早く帰ってこい、美月!)」
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