第36話 『 苗字が変わったなー、くらいですかね 』
華への結婚報告から暫く日が経過して、ついにその日を迎えた。
「諸々の手続き、終わりました」
夕方。制服姿の美月が市役所から帰って来て、少し疲れたように吐息を溢した。
「お疲れさん」
「はい。少し休ませてください」
「好きなだけ休めよ」
テーブルに座った美月と替わるように晴は腰を上げれば、キッチンへ向かっていく。
マグカップと冷蔵庫からレモンティーを取り出せば、黄金色の液体が注がれたマグカップを美月の前に置く。
「今日はすごく優しいですね」
「なんだかお前ばかりに面倒かけて申し訳なくてな。このくらいさせろ」
気遣わなくていいのに、と呟くも、美月はどことなく嬉しそうだった。
「……素直じゃない奴め」
「何か言いました?」
「いや何も」
ふい、と視線を逸らす。少しして視線を美月に戻せば、
「今日は出前でも取るか? それとも外に食いに行くか?」
「本当に今日はどういう風の吹き回しですか?」
「普通に労ってるだけだろ。なのに疑いの眼差しを向けてくるとは心外だ」
眉尻を下げる美月に、晴も本心から労っているというのに疎かにされた気分で不快になってしまう。
市役所に婚姻届けを提出し、美月は【瀬戸】から【八雲】に変わった。となると当然、美月はパスポートに通帳、保険証……といった身分を証明するもの変更を余儀なくされる。
今日は学校が午前授業で午後はフリーだった事もあり、さらにバイトを休んでまで名義変更に勤しんでいた訳で、美月は多忙な一日を過ごしたと思う。
半面、晴の方は特に変更するものはないので、変わらない一日を過ごしていた。
だから晴なりに美月に負担を掛けさせたのではないか、と懸念したのだが、どうやらそれが裏目に出てしまったらしい。
「不服ならもう気遣わん」
すっかり拗ねてしまえば、美月がごめんなさい、と頭を下げた。
「晴さんなりに気を遣ってくれたんですね。気づかなくてすいません。その、嬉しいですよ」
語尻に照れを含みながら答えれば、晴は「分かればいい」と機嫌を直した。
「で、八雲美月になった感想はどうだ?」
挑発的に問い掛ければ、しかし美月は平然とした面持ちだった。
「特になにも。あー、苗字変わったなー、くらいですかね」
「感慨深さとかはないのか?」
「喜んで欲しいんですか?」
「いやべつに」
「じゃあ求めないでください」
淡泊に答えれば、ツンとした声音が返って来た。
若干美月の機嫌を斜めにした感があるも、晴は構わず質問を続けた。
「じゃあ新妻になった感想は?」
「とくにないですかね。これまでと変わらず、晴さんを支えていくので」
なんとも頼もしい返事と、期待外れの感想を一緒にくれた。
「お前もわりと淡泊だよな」
「そうでしょうか。晴さんよりは相手の意図を汲んで答えてますよ」
「嘘吐け」
「晴さんは対象外です」
なんでだよ、と口を尖らせれば、美月はふふ、と微笑みを浮かべて、
「だって貴方ですから。遠慮は無縁でしょう?」
「少しは配慮をくれよ」
「配慮してますよ。晴さんが気付かないだけです」
「そうかよ」
本当に晴が気付いてない可能性があるので、美月にこれ以上反論できなかった。
はぁ、と諦観した風に吐息すれば、今度は美月が訊ねてきた。
「逆に、晴さんはどうなんですか?」
「あ?」
「私の旦那になった感想は何かありますか?」
「特に何も。これまで通りだし、あんま嫁だって感じはない」
「そういう人ですよね、貴方って」
少し拗ねたように美月が頬を膨らませた。
「お前と同じ感想を述べたまでだろうが」
「それはそうですけど……でももう少し妻に対して配慮があってもいいと思うんです。晴さんがそういうのに無頓着なのは理解してますけど」
晴の性格は理解しているが、それでも美月は新妻になった感想が一つ欲しいらしい。
いったい何を言えばいいだろうか、と眉間に皺を寄せると、
「(あ、丁度いいタイミングか)」
不覚にも好機を見つけて、晴は期待の眼差しを向けてくる美月を見つめると、
「目、瞑れ」
「いきなりなんです?」
「いいから目瞑れ」
「……なんか怖いなぁ」
感想を求めていた美月は晴に不躾に指示を出されて困惑した。戸惑う美月に構わず晴は早く目を瞑れ、と催促すると、彼女は恐る恐る紫紺の瞳を閉じていく。
「ちょっと待ってろ」
カタ、と椅子が音を立てた。
立ち上がり、ソファー前のテーブルにポツンと置かれた小さな紙袋を取れば、再び美月の元へ戻っていく。
そして、晴は小さく息を整えると、おもむろに美月の左手を掴んだ。
無防備な美月が晴の手にビクリと肩を震わせて、わずかに頬が硬くなる。何かされる、そんな緊張を纏った美月の思惑通り、晴は美月に何かした。
しかし、それは決していかがわしい事ではなく、少女に男としての誓いを立てた行為だ。
既に、美月も気づいているのだろう。自分の左手の薬指に、何かが填った事に。
あ、と声を漏らす美月に、晴は息を吐きながら促す。
「開けていいぞ」
「……これは」
ゆっくりと、紫紺の瞳が開かれていく。そして、美月が呆気取られたような声を上げた。
「俺からのプレゼント……つーか、夫婦なんだからあって当然のものだ」
「――っ‼」
美月の左手の薬指。その指には、銀色に輝く――結婚指輪が填められていた。
大きく揺れる紫紺の瞳は、その胸中に何を思ってるか分からない。
ただ、大いに驚いてる事だけは伝わるから、
「これなら夫婦らしく見えるだろ」
いつか話した、自分たちが周囲からどう見えているのか。それを美月が気にしているとは思わないが、互いの薬指に結婚指輪を填めているならば、少なくとも兄妹や友達には思われまい。――恋人かそれ以上に見えるはずだ。
「お前はもう俺の嫁だ。だから、誰のところにも行くな」
こんな立派な嫁を失うのは晴としても惜しいため、これからは全力で美月を振り向かせ続けなければならない。
大変な日々だし面倒だな、とは思うものの、それで小説が書けて美月の美味しいご飯が食べられるなら相応の努力をするメリットはあった。
やや命令口調で言えば、美月はふふ、と微笑みを浮かべて、
「どこにも行きませんよ。私は晴さんのものですから」
「そう言ってくれるのはありがたいが……本当に行くなよ?」
「それはフリですか?」
「な訳あるか」
妻に浮気してくれ、なんてどこの旦那が推奨するだろうか。
少なくとも晴は美月を独り占めしたい。家事万能で世話焼き、こんな執筆バカに尽くしてくれるのは、世界中で美月だけだろうから。だから、どこにも行かないでほしい。
女々しくありつつも、そう懇願すれば、美月は「仕方がないですね」と吐息して、
「晴さんの生活の面倒は引き続き私が管理します。なので、貴方は思う存分、小説を書いて下さい」
「ん」
朗らかな声音に、晴はいつも通り淡泊に返した。もう、慣れたやり取りだ。
それから、美月は愛おし気に結婚指輪を抱きしめると、
「ありがとうございます、晴さん。とっても、嬉しいです」
その可憐な微笑みは、見惚れてしまうほどに美しくて。
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