第37話 『 貴方と話す準備です! 』


 ――結婚して一週間が過ぎた、朝の出来事。


「美月。ちょっとこっち来い」

「なんですか?」


 皿も洗い終わり、そろそろ家を出ようと準備していた美月を手招きする。小首を傾げる彼女が近くまでくれば、


「襟にゴミが付いてる」

「――っ‼」


 ちょうどゴミが目に入ったのでそれを取れば、なぜか美月がビクリと肩を震わせた。


 晴に触れるのがそんなに嫌だったのだろうか。視線を逸らした。


 そんな美月に不服気に鼻を鳴らせば、晴は眉間に皺を寄せる。


「なんでそんな顔するんだよ?」

「いえ、なんでもありませんよ。……ただ」

「ただ?」


 追及しようとすれば美月は途端、顔を赤くしてもにょもにょと口を動かす。それが、何か言いたいが言えないようジレンマを抱えたように見えた。


 晴はぐいっと顔を近づければ、視線を鋭くして、


「言いたいことがあるならハッキリ言え」


 華との話もあり、美月にはなるべく我慢させないように意識するようになった。


 いくら美月が頼りになる性格で、妻といえどやはりまだ学生で子どもだ。ならば、大人である晴が子どものワガママくらい聞くのが筋というものだろう。


 しかし、顔を近づければ美月が意図的に視線を逸らした挙句、距離を取った。


「ち、近いです!」

「べつにこの距離は普通だろ」


 前までは耳元で息を吹きかけるくらいの距離で平気で話掛けてきたくせに、と胸中で呟けば、美月は顔を真っ赤にした。


「貴方がそういう人だとはもう重々理解してますけどっ、でも、私としては心の準備というものがあるんですっ」

「なんの準備だ」

「貴方と話す準備です!」

「それ離婚寸前の冷え切った夫婦みたいなやり取りだからやめろ」


 結婚一週間で離婚は絶対に嫌だった。世間的にも、晴の事情的にも。慎に絶対笑われるから。


 ぜぇぜぇ、と荒い息を繰り返す美月に一歩近づこうとすれば、連動するように美月が一歩足を退いた。


「……何してんだお前」

「それはこっちのセリフです。何するつもりですか?」


 なんか敵対心を向けられていた。


「触るなというなら触らんが」


 と思いきやしゅん、と雨に濡れた子犬みたいな顔をし出した。


「……え」

「お前朝から何なの⁉」


 触るなと言ったり触って欲しそうな顔をしたり、美月が晴の予測の範疇を越える挙動を取るせいで朝から頭がおかしくなりそうだった。


「触って欲しいのか欲しくないのかどっちだなんだ⁉」


 やや強めの口調でいえば、美月は慌てて近づいて来て、


「さ、触って欲しいです!」

「なら最初からそうねだれ」


 美月がやっと素直に応えてくれて、頬を朱に染めながらぐっ、と近づけた。

 はぁ、とため息を吐いて、晴は美月の望み通り手を差し伸べる。


「今日も一日頑張ってこい」

「――はい」


 ぽん、と頭を置いて撫でれば、美月が嬉しそうにはにかむ。こういう所は可愛い。


 最初はどう触ればいいか戸惑ったものの、最近そういうシーンを書いたおかげで頭に【頭を撫でる】という選択肢が浮かんだ。なんかギャルゲーみてぇ、と胸中で呟きながらも、嬉しそうな美月の顔をみればどうでもよくなる。


 それから暫く美月を撫でていれば、


「あの、晴さん……」


 上目遣いで名前を呼んだ美月に、晴は「あ?」と怪訝に声を鳴らした。


「なんだよ」

「いえ、私としてはこれだけで凄く朝のやる気がもらえるんですけど……その、も、もう一つ、忘れてませんか?」

「忘れてる?」


 美月の催促するような視線に、晴は疑問符を浮かべた。


 頭は撫でているし労いの言葉もかけた。皿洗いもした。ならもう一つは何があっただろうか。


 思い当たる節がなく、あれこれと思案していると、


「べ、べつに大したものではないから思い出さなくてもいいです」

「気になるだろ。言え」

「本当になんでもありませんから」


 と口では言うが、美月の顔は物足りなさそうだった。

 美月の頭から手を離して顔を近づければ、またまた美月は後ろに引き下がった。


「俺に隠し事すると後悔するのはお前だぞ」


 晴は積極的に人の事情を知る気がないので、隠し事や抱え事を悟っても自分から聞こうとはしない。相手が言うまで待つタイプだ。おかげで、慎は晴に無遠慮になったが。


 不良みたいな圧で美月から強引に聞き出そうとすれば、美月は露骨に会話を中断させた。


「あ、もう登校する時間なので行かないと! それじゃあ行ってきますね。そうだ、今日はバイトがあるので夕飯は自分で用意してください! 用意できなくてごめんなさいそれじゃあ行ってきます!」


 饒舌に伝えた美月はそのままソアーに置いた鞄を取って出て行ってしまった。

 凄まじいものを見た晴は暫く呆気に取られながら、ようやく我に返って嘆息した。


「……何なんだアイツ」


 テレビの音が木霊するリビングに、晴の呆れた声音が混ざった。

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