第350話 『 妻を大事にする気持ちは、いつまで経っても忘れずに 』
――十六時。
「おぉ、こんな広い部屋初めて泊るぞ」
「……私は旅館に初めて泊ること自体初めてですよ」
旅館のチェックインを済ませて今夜泊る部屋に着けば、二人はその全貌に驚嘆とした。
部屋の間取りは約13・5畳。部屋の雰囲気は〝これぞ和室〟といった感じで、静謐感が漂う。部屋中央にはテーブルと座布団(イステーブル式も選べるが今回は座布団式)が、そしてやはり一番目を惹くのが、
「見ろ美月。室内露天風呂がある」
「楽しそうですね」
「そりゃこんな豪華な部屋に泊まるなんて機会早々ないからな。資料用に写真も撮っておこう」
いつになく興奮している晴を美月は若干呆れながら見守っていた。
「お母さんに感謝ですね」
本当にその通りだと深く頷きながら、
「なんなら今度は三人で来るか」
「わぁ、お母さん大はしゃぎしそう」
「娘が誘ってくれたら喜ばない親はいないだろう」
「いえ私と、というより、晴さんと一緒に旅行に来れることに興奮しそうで」
娘の母親に異様に気に入られている自覚はあるが、そこまで喜ばれるのも複雑な心境だ。
頬を引きつらせながら晴は持っていた荷物を下ろせば、
「さて、夕飯までは自由時間だが、どうするか」
「そんなの一択では?」
「ふっ。だよな」
問いかければ、美月もわくわくといった顔をしながら指を一つ立てて――。
▼△▼△▼▼
「流石は高級旅館。温泉の高級感も凄まじいな」
ぽかん、という擬音が聞こえそうな湯気で包まれた空間で裸で仁王立ちしていた。
隣に美月がいれば「何やってるんですか」と呆れられそうな構図だが、ここは男湯で妻は今頃女湯で髪を洗っている最中だろう。本当に髪を洗っているかは知らんが。
風呂上がりの妻の浴衣姿を楽しみにつつ、晴も早速体を洗う。
「そういえば、温泉に入るのも何年ぶりか」
しゃこしゃこと髪を洗いながら、ふと耽る。
最後の記憶は、たしか小学校低学年か。兄の大学入学祝いと姉の高校入学祝いを合わせて、家族で北海道へ旅行に行った気がする。
あの頃はまだ家族と仲良かったな、と思いながら、戻らない過去とわずかな寂寥を覚えつつ髪を洗い流す。
「…………」
一人では特に喋ることもないので、無言でさっ体を洗う。
その最中、自分の心境の変化に気付きながら。
帰る時にでも美月に話すか、と胸中で呟きながら、晴は今日一日楽しみにしていた温泉にようやく浸かる。
「ふいぃ。極楽、極楽~」
「いやぁ、極楽だねぇ」
肩まで湯船に浸かった瞬間、おっさんみたいな吐息が重なった。
思わず隣を見てしまえば、晴は「あれ」と声を上げた。
「万丈先生じゃないですか」
「あらら、晴くんじゃないか」
どこかで見覚えのある顔だと思えば、まさかの先輩作家だった。
彼の作家名は万丈朱雀。年齢は三十七歳。晴より七年早くデビューした先輩で、ベテランのラノベ作家だ。
そんな彼もこんな所で会うとは想定外だったようで、けらけらと笑っていた。
「まさか晴くんとこんな場所で会うとはねぇ」
「俺も驚きですよ」」
先生も旅行ですか、と問いかければ、朱雀は「そうだよぉ」と穏やかな声音で肯定した。
「奥さんと来てるんだよね」
「そうだったんですね」
そういう晴くんは、と問い返されれば、晴は少し照れくさく「同じです」と答えた。
「俺も妻と熱海に旅行に」
「そっか。いやはや奇遇だねぇ」
「はは、むしろここまでよく出くわさなかったものですよ」
そうだね、と朱雀はカラカラと笑った。
「あれ、というか晴くん結婚してたんだ?」
「実は去年結婚しまして」
「へぇ、まぁ晴くんイケメンだし、そういう相手がいるのも不思議じゃないか」
出会って相手と一か月で結婚しました、なんて事は言えず、苦笑を浮かべながら朱雀の自己解釈に任せた。
この話を深堀されたらマズイ、と直感した晴は、すぐに話題を移す。
「万丈先生はどうして此方に?」
「結婚記念日で来ててね。どこがいい? って聞いたら「なら熱海あと高級旅館。それ以外ない」って強請られちゃって」
本当に酷い妻だよ、という割には、ケラケラと笑っている。
誰かに似ているな、と思っていると、朱雀の声が続いていて慌てて意識を返した。
「でもま、奥さんにはいつも感謝してるから。せめてそれくらいは叶えてあげないとって思ってね」
「奥さんとは長いんですか?」
朱雀に妻がいることは知っていたが、詳しくは知らなかった。
せっかくの機会だし聞くか、と思って尋ねれば、朱雀はうん、と肯定した。
「高校生の頃から交際しててね。付き合いでいえば二十年くらいにはなるんじゃないかな」
「そんなに」
驚嘆の声を上げれば、朱雀は「だよね」と苦笑。
「僕もこんなに長く彼女と一緒にいるとは思わなかったよ。大学を卒業して就職して、そろそろ結婚しようかってお互い考えてた時に僕がミックス文庫の新人賞で大賞獲っちゃってね。作家になるって言った時は破局しかけたことは今でもよく覚えてる」
今となっては笑い話だよ、と過去に耽りながら朱雀は教えてくれた。
「あ、ごめんねこんなおっさんの話。興味ないよね」
「いえ、気になります」
そうかい、となんだか照れくさそうに後頭部を掻く朱雀。
晴も他人事ではない気がするし、それに朱雀とこんなに話すのは珍しいので続けたかった。
促すような視線を注げば、朱雀は頬を掻きながら教えてくれた。
「作家になるくらいなら別れるって言われて、それでも僕は彼女と作家の道を諦めきれなかった――だから、土下座したんだよ」
超全力でね、と付け足す朱雀。
「キミに僕を支えて欲しい、って。作家として生きる僕を支えてくれ、ってね。もうね、男のプライドとか全部捨ててただひたすら懇願したよ」
「それだけ奥さんのことが好きだったんですね」
「んー、好きとは少し違う気がする。こう言えばいいのかな。この人が隣にいなかったら自分は死ぬ、みたいな?」
よく分からないよね、と言われたが、晴はそれに首を横に振った。
「よく分かりますよ。俺も、同じですから」
「そうなの?」
「はい。俺も、妻が支えてくれないと死ぬって思ってますから」
「はは、お互い、男としのプライド欠片もないよねぇ」
「ですね」
本当にその通りだと、思わず苦笑い。
「でも、あの時全力で土下座しなかったら奥さんとはあのまま別れてたし、結局その数年後には結婚しちゃった訳だから、人生はどうなるか分からないよねぇ」
「土下座って便利ですよね」
「その言い方だと、晴くんも土下座した経験あるんだね」
「はい。妻をもらう時に、相手の母親に」
「あはは。イケメンはやることが違うなぁ。それは僕と違って、覚悟を決めたものだろう?」
「それくらいの覚悟ないと妻をもらえないと思ってましたから」
それで美月をもらえたなら、むしろ安上がりなくらいだ。
美月と居られるなら土下座でもなんでもできる、と我ながらに妻大好きだなと思いながら、
「妻を労う気持ちは、いつまでも忘れないようにしないとな」
「お、若いのに言うねぇ」
「はは、なんかすいません」
「いいんだよぉ。むしろそのくらいの気概がないと、後々が大変だからね」
「この機会にご教授頂けると幸いです」
「あはは。ならせっかくだし、露天風呂にでも浸かりながらでも話さそうか。と言っても、僕が奥さんの尻に敷かれてる話ばかりだけど」
「俺も尻に敷かれてばかりですよ。……たまにやり返しますけど」
ぼそっと呟いた言葉は、湯船から出る音でかき消される。
それから、晴は旅行で偶然出会った先輩作家と小一時間ほど夫婦円満の秘訣を聞くのだった――が、
「あれ、晴くんの方がいい旦那さんしてない⁉」
「そうですかね。俺としては普通だと思ってたんですけど」
「そんなことはないよ! 晴くん、いやこれからは晴大先生と呼ばしてくれないか⁉ というか僕なんかの話よりキミの夫婦生活を聞かせておくれよ! できれば詳細に! 小説の参考になるから!」
「……趣旨が変わってしまった」
美月との夫婦生活を話していく最中で、作家としても人生としても先輩である朱雀から尊敬の念を抱かれてしまうのだった。
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