第31話 『 夕景の残響 』
「……今日は助かったわ」
「珍しい。晴が俺に礼を言うなんて」
「バカにすんな。礼くらい俺だってできるわ」
とある目的もひと段落ついた頃にはすっかり夕方で、晴は疲労を感じながら慎に礼を告げる。
意外、と目を丸くする慎はついでに言った。
「美月ちゃん。喜んでくれるといいな」
「ふっ。どうだろうな」
「そこは素直になれよ」
慎に背中を叩かれるも、晴はやはり懸念――というより不安が拭えない。
「思えば、俺はあいつの好物も好きなものも知らないわ」
「それでよく一カ月同棲できたな」
慎が驚いているが、晴が一番驚いている。
「あいつは、俺の好きなものとかよく聞いてくるけど、自分の好きなものは言わないんだよ」
「まぁ、物静かというかあんまり自分のことを話さそうな性格には見えるね」
喫茶chiffonで出会ったヒナミとは対照的な美月。
物静かで周囲をよく見ていて気が利く。大和撫子という言葉がよく似合う美月は、晴からすれば何を考えているか分からない少女だ。おかげで、晴は美月との距離感が未だに掴めない。
積極的な時もあれば消極的な時もある。甘えたそうにしているのにこちらが近づけば離れてしまう。まるで……
「猫」
「なに急に?」
ぽつりと呟いた晴に、慎が怪訝に眉根を寄せる。
「どこかに猫でもいるの?」
「違う。美月のことだ」
「……あー、猫みたいな性格、ってこと?」
「あぁ」
こくりと頷けば、慎も確かにと共感した。
「あいつは何を考えてるのかよく分からん。それが猫みたいだ」
「猫って気まぐれだもんな。ところで晴は犬と猫ならどっちが好き?」
「猫。吠えないし突進してこないから」
「その言い方だと、まるで犬に突進されたことがあるような言い方だね」
実際小学校の頃に犬に突進されて数メートル吹っ飛んだ思い出があるのだが、その話は置いておいて、
「俺は、あいつのことがもっと知りたいのかもしれない」
と呟くと、慎が吹いた。
「ふはっ。まさか晴が誰かのことを知りたいと言い出すとはね。本当に、晴は変わったよ」
「……そうか?」
首を捻れば、慎がそうだよと温かい双眸を向けてきた。
「うん。前よりも雰囲気が柔らかくなった」
「自分じゃあんまり分からないな」
「でもちゃんと思い返してみれば、思い当たる節くらいはあるんじゃない?」
「……まぁ」
慎の言葉をしっかり胸中で反芻すれば、肯定できた。
美月と共に過ごして、晴は確かに以前より変わっていった。
執筆後はしっかり休むようになったし、いつも気怠かった朝が少しだけ心地よくなった。肩こりが酷かったが、それもだいぶマシになっている。しっかり湯船に浸かるようになったからだろう。まぁ、目の隈は相変わらずだが。
晴の変化の全てには、美月が関わっていて。
瞼の裏に黒髪の少女を思い浮かべていると、慎が顔を覗き込んで微笑んだ。
「ほらね。俺の言う通りだったろ。恋人ができると利点があるぞって」
「――いや」
その言葉に、晴は微笑を浮かべて否定した。
「ただの恋人じゃダメだ。あいつだから、俺はマシになれたんだと思う」
どこかの誰かではなく、美月だから晴は変われていけたのだろう。
傍にいてくれて、こんな執筆バカに尽くしてくれた、あの優しい少女だったから、晴は小説以外に目を向ける事ができた。
「(これを成長っていうんだろうな)」
もう味わう事がないと思っていた感覚に、晴は少しだけ感慨深くなる。それと同時、そんな事を思った自分にむず痒くなる。まさか、二十四歳にもなって子どもみたいな実感を味わうとは想像もしなかった。
こういうのはもっと、真面目に社会に生きてる人が体感するものばかりだと思っていたが、存外小説家も感じ得る事が出来るようだ。
これも全て、美月のおかげなのだろうか。
そんな感慨に耽る晴に、慎はくつくつと笑っていた。
「晴らしくない解答だねぇ」
「だが、ラブコメ作家らしい解答ではあるだろ」
「そうだな。ラブコメ作家なら、そういう歯に浮いた台詞は言えるかも」
お互い、苦笑を交わし合う。
それから、晴は言った。
「俺は、あいつのことを知っていきたい、と思ってる。あいつがこれからも俺なんかの傍にいてくれるんなら、それくらいの努力はしたい」
「おぉ、ラブコメ作家がそれを言うと様になるな……でもその感情、本来ならとっくに抱いてるはずだからね?」
むしろ遅すぎでは、と慎にツッコまれた。
けれど、カノジョいない歴=人生の晴にとっては、この浮足立つ感情は新鮮で。
「遅くてもいいんだよ。あいつが俺の傍にいてくれる限りな」
「ふふ。本当、晴らしくない答えだな」
夕景に染まっていく街を歩きながら、晴はそうだな、と胸中で肯定する。
美月がいるなら、晴は変わっていける。変わっていく事に怖気づくかもしれないが、一歩ずつならちゃんと進める。
「(この感情、小説に活かせるかもな)」
気を抜けば小説の事を考えてしまうが、慎も小説に活かせるから恋人を作れと言ってきたので問題ないだろう。ただ最近はその思考に、美月に関する事も入ってきている。
とりあえず、これから家に帰ったら美月が帰ってきて夕飯が出来上がるまでこの感情を忘れないように執筆するか、と思案していると、
「ねえ、晴……」
「あ? なんだ?」
歩幅を揃えていた慎が突然止まって、晴も足を止めた。
怪訝な顔をしながら振り向けば、慎が歩道橋を見ながら呟いた。
「あれ、美月ちゃんだよね……」
「――は?」
慎が指した指を追うように晴も歩道橋を見れば、たしかにそれらしき人物がいた。
「悪い。目が悪くてあいつかどうか分からない」
「いい加減眼鏡買いなよ……じゃなくて、あれ、美月ちゃんだよ」
晴よりも視力がいい慎が言うのだから、おそらく美月で間違いないのだろう。よく目を凝らして見れば、あの黒髪と服に見覚えがあった。
美月だ。
「(バイト終わったのか)」
なら一緒に帰るか、そう思案して一歩踏み出そうとしたが、足が動かなかった。
「……あれ、誰だろ」
歩道橋にいたのは美月以外にも数人いるが、明らかに美月ともう一人が向かい合っている。美月と対面しているのはおそらく男性だ。短髪にスーツを着ているが体格が細身なせいで言い切れない。が、たぶんサラリーマンで間違いはないだろう。
「晴、あの人知ってる?」
「んな訳あるか」
可能性として美月の学校の先生が浮上したが、慣れてきた視界がそれを否定される。
「(あいつのあんな嫌そうな顔、初めて見た)」
曖昧な顔をして、何かを必死に否定しようとしているような顔。それに、胸がひどくざわつく。
「美月ちゃん、明らかに嫌がってるよね」
「だな」
慎にも分かるほど、明瞭に美月の顔色が変わっていく。
始めは曖昧に、それから数秒も経たないうちに、怯えていくように身を小さくしている。
ドクン、ドクン、と心臓の鼓動がいやに大きく聞こえて、脳が警鐘を鳴らし出した。
これがただの妄想であればいい。けれど、嫌なずっと予感が止まらない。
「あいつ、まさか……」
美月と対面している男。そいつを凝視してみれば――思い出した。
何度か、chiffonで目が合った男だ。その時は気付かない振りをしていたが、明らかに晴に敵意を向けていた。そして、美月の事も何度も見ていた。執拗、その言葉が似合うほどに。
そして、chiffonを出た時に感じた、途轍もない悪寒。
――あの肌に刺さるような気配の正体が、ようやく分かった。
「あれ修羅場ってやつ、だよね」
「あぁ。お前も小説家なら分かるか」
そんな場面をお互い書いているから感覚で分かる。特に、晴の方はより強く感じ取れた。
「愚問だけど、美月ちゃん助けた方が良いよね」
「当たり前だ。俺たちが行けばあれも退くだろ」
ただの会話であって欲しい。できれば今すぐ話終わって別れて欲しかった。これが面倒ごとにならないで欲しい――けれど、その切望は、刹那に否定された。
「なんでだよ⁉」
ビリッ、と空気が震えるような怒号が周囲に響き渡った。
男の、憎悪を孕んだ野太く威圧的な声を聞いた――その瞬間だった。
「慎、これ持ってろ」
自分の荷物を乱暴に慎に渡して、晴は気付けば走り出していた。
「あ、ちょっと晴⁉」
叫ぶ慎には目もくれず、晴は階段を駆け上がる。何段も飛ばして、一気に登った。
数秒もしない内に階段を登りきれば、目についた光景に頭に血が上った。
「ちょ⁉ 止めてください⁉」
「なんであんな男なんだ⁉ 僕の方がずっとキミを見てきたんだぞ⁉ 毎日キミに会いに行ったのに、いつも僕に向けてくれた笑顔は嘘だったのか⁉」
美月の腕を掴んで、見事な自己中を履いている男に晴は堪らず吐き気を覚える。
「……きめぇ」
素直な感想がぽろりと零れるが、男の不快さに震撼せずにはいられない。
荒くなった呼吸を整えながら、晴はゆっくりと近づいていく。
「おいっ。その辺にしとけ。じゃないと警察を……」
呼ぶぞ、そう言うとした声が途中で止まった。
眼前。その光景に、時が止まったような感覚を晴は味わう。
ゆっくりと時間が流れて、あらゆる動きがスローモーションに見えた。
生まれて初めて味わった奇妙な感覚。心臓が今にも爆発しそうなほど鼓動しているのに、思考は驚くほどクリアだった。
「(バカ。そんなとこで話してるからだ)」
眼前、男の手を無理矢理引き離そうとした美月が、力づくで振り解いたせいで体勢を崩した。もつれた足は着地する場所を失って、そのまま宙に落下しようとする。
「美月――ッ‼」
それは刹那の出来事で、その刹那に晴の足は既に地面を弾いていた。
火事場の馬鹿力って本当にあるんだな、とありえない動きに自分でも驚いて、そして体感して感動した。
加速した体は、晴を瞬時に美月の元へと運ばせた。
「はるさっ……っ⁉」
宙を舞う美月の体を、晴は伸ばした腕で強く抱きしめる。美月が驚いたような声を上げたのが、鮮明に聞き取れた。
晴も宙に舞ったが、決して美月を離さなかった。
そして、何かがぷつりと途切れたように、それまでゆったりと流れていた時は急加速した。
「――――――ッ‼」
「きゃああああああ⁉」
加速した時間は、容赦なく晴の体を落下させていく。
宙を数秒舞ったと思ったら、次の瞬間には階段を転がっていた。視界は目まぐるしく回ってまともに機能していない。全身は骨が砕け散っていくように激痛が襲って、奥歯を必死に噛んで耐えるもいますぐ悲鳴を上げたかった。それでもただひたすらに、絶叫を堪えて美月を抱きしめ続けた。
ようやく勢いが止まれば、全身から力が抜けていった。
「晴さん⁉ 晴さん⁉」
「そんな……大声出すな、頭に響く……っ」
明滅を繰り返す視界に、美月がどうにか映る。顔を真っ青に染めながら、涙を溢して晴の名前を叫んでいる。
全身が痛い、とにかく痛くて、起き上がれない。地面を見れば、赤い斑点が見えた。たぶん、晴自身の血だ。
「(やば。くらくらする)」
声が出ない。振り絞れる力もなくて、まるで、死んでいくようだった。
唐突に頭が温かくて、唐突に全身が冷たくなっていった。紅い海が広がっていくのが視界の端で見えた。
「晴⁉ 晴⁉」
泣き叫ぶ美月の隣に慎がやってきて、慎も晴の名前を必死に叫んでいた。
「(そんなに叫ばなくても、聞こえてる)」
頭に響くから止めて欲しい。そう言おうとしても、もう何も動かせない。
「待って――ぐに救急車――から――だから――なよ⁉」
慎が何か言ってるが、晴にはもうまともに聞き取れなかった。
「――るさん⁉ ――さん⁉ おねが――しな――で⁉」
美月が泣いている。何かを必死に叫んでいる。
ぽろぽろと落ちていく雫が、晴の頬に伝っていく。
――泣くなよ、お前は笑顔の方が似合ってる。
そう伝えたいのに、視界は少しずつ暗くなっていく。
あぁ、自分は死ぬのか、と直感した。
もっと小説を書きたかったし、今書いてる作品を完結させたかった。それに、もっと美月とも一緒にいたかった。
――せめて名前くらい、最後に呼んでやればよかった。
そんな後悔を残して、晴の意識は闇に消えた――――。
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