第32話 『 私たち、結婚しましょう 』

 時々思う。自分は運が良い人間なんだと。


 高校生の時に作品が書籍化して、〝現役高校生作家現る⁉〟なんて出版社が売り込んでくれたから人気に更なる拍車がかかって、処女作が八十万部を超えた。


 たまに出す一巻完結の小説も、自分が書きたいものを書いただけなのにそこそこ売れた。


 だから周囲が晴を天才と賛美を送るのも納得はできた。が、留飲は下らなかった。


 全ては幸運が重なっただけ。けれどその結果が晴を〝天才〟と周囲に錯覚させてしまった。それもまた、一つの幸運なのだろう。


 でも、天才と呼ばれる晴は常に孤高だった。


 端的に言えばストイックだったのだろう。作品が好評で、ネットランキング一位を獲っても己惚れず、ラノベ作家なら誰しもが手が出るほど欲しい栄誉を獲っても慢心せず書き続けた。ひたすらに。それこそ、感情のない機械のように。


 天才と呼ばれたいから努力していたんじゃない。作品の作者として、譲れない矜持があるから努力し続けたのだ。


 けれど、そんな努力はいつも見てもらえなかった。天才という陰に隠れてしまって。


 それでも良かった。小説が書けるなら、そんな孤独にも耐えられた。


 でも。


 ある日。そんな孤独な世界から手を引いてくれた少女に出会った。


 こんな執筆バカに尽くしてくれると、こんな禄でもない奴に好意があると、こんな自分と話すだけで元気になるんだと、少女は笑ってくれた。


 今まで分からなかったけど、今ようやく分かった。


 晴は、嬉しかったのだ。


 少女が笑ってくれて。少女が傍に居てくれて。少女が安寧を与えてくれて。


 ――美月が、晴の手を握ってくれたことが。


きっと、美月と出会えた事が晴にとっての最大の幸運だから――


「――原稿」


 ゆっくりと瞼を開けると、真っ白な天井が目に入った。

 ぽつりと、呟いた言葉に、隣から微笑が聞こえた。


「ふふ。起きて開口一番に言うのがそれですか。本当に、執筆病なんですから」


 呆れたような声音に「うるせ」と淡泊に返して、晴は視線を傾ける。

 視線の先。そこには晴の目覚めに安堵する美月がいた。


「おはようございます、晴さん」

「ん」


 毎朝の日課のような挨拶を交わして起き上がろうとすれば、ズキリと頭に痛みが走った。


「――ッ」

「まだ安静にしてください。強く頭を打ったそうなので、あまり動かない方がいいです」

「激しい動きじゃなきゃ問題ないだろ……いっつ」


 顔を蒼くする美月に手を振って、晴は体を起こす。頭が痛み、体は全身筋肉痛のように軋む。それでも力づくで起きれば、ようやく美月の顔を間近で拝めた。


「……怪我、なかったか?」

「晴さんが守ってくれたので、掠り傷程度で済みました」

「俺みたく重症じゃないならいい」


 皮肉げに言えば美月に「笑い事じゃありません」と叱られた。

 それから美月は「でも」と一拍置くと、


「本当に、目を覚ましてくれてよかった」

 美月はほぅ、と胸を撫で下ろした。

「んで、俺何時間寝てた?」


 とりあえず現在の日付を確認したいので、安堵している美月には申し訳ないが催促した。


「二日間眠ってました。今は火曜日の十六時半です」

「マジか。結構寝てたな」


 美月が制服姿なので平日だとはなんとなく分かっていたが、日付を二つも越していた事実に驚愕だ。まぁ、あれだけ強く頭を強打して二日で目を覚ませただけでも幸運だろう。


「そうだ。慎は?」

「慎さんは無事ですし、救急車を呼んでくれたのも、出版社の方に連絡したのも慎さんです」

「そっか。あいつには面倒掛けたな」


 どうやら色々気を利かせてくれたようで、晴は慎に大きな借りが出来てしまった。


 面倒ごとに巻き込まれなきゃいいが、と助けてくれた友達に懐疑心を抱きながら、晴は美月に振り向くと、


「それで、男の方はどうなった?」


 この一件の事の顛末を訊けば、美月は静かな声音で語った。


「あの後、警察に捕まりました」

「だろうな。……あの男、お前のストーカーだったのか?」

「いえ。ストーカーではありません。ただ、私が出勤している時にいつも来てくれているお客さんで、時々話したりもしてました。……まさか私に好意を抱いているとは気づきませんでしたが」

「お前がいるタイミング狙って来てる時点で十分ストーカーだろ」


 むしろ、よくぞ事件の当日まで美月を襲わなかったものだ。まぁ雰囲気からしてそんな大層な真似できないと思ったし、件の男が美月に迫ったのも晴が原因だろう。


 晴という存在が、あの男の美月への歪んだ恋情を刺激してしまったのだ。


 となると、責任の所在は美月よりも晴にある訳だが、


「――ごめんなさい」

「あ?」


 唐突に謝罪してきた美月に、晴は怪訝に眉をしかめる。


「なんでお前が謝るんだよ」


 そう問いかければ、美月はスカートをきゅっと握り締めて、呻く。


「晴さんが私を庇ってくれたのに、私は何も出来なかったから」

「んなの出来なくて当たり前だろ。子どもなんだお前は」


 突然の出来事の連続で、未成年の美月が冷静な判断が出来るとは思ってない。記憶を辿れば慎も相当パニックになっていたので、美月を責める理由はない。


 それでも、美月は納得していなかった。


「でも、私のせいで晴さんにこんな大怪我させてしまいました」

「お前に怪我がないならいいって。むしろお前に何かあったら俺が華さんに締められるわ」

「だけどっ、私があの時ちゃんと強く断っていれば」

「強く断ってもああいう男は聞く耳を持たない。自分の世界で完結してるからだ」


 あの男の理想の世界を無遠慮にぶち壊したのは晴だ。そこに同情など欠片もないが、そのせいで美月に怖い思いをさせてしまった。


 だから謝るなら晴の方だ。


「悪い。俺がもっと早く駆けつけてれば、お前をこんな危険な目に遭わせなかったかもしれなかった」

「晴さんは悪くありません! 悪いのは私です」


 美月は頑なに譲ろうとせず、声を上擦らせてまで自らを咎めようとする。

 こういう所は面倒くせえな、とため息を吐くと、晴はおもむろに左手を上げて、


「いたっ⁉」


 美月のおでこにデコピンを浴びせた。

 突然攻撃されて動揺している美月に、晴は「あのな」と前置きすると、


「お前は俺に負い目を感じてるみたいだが、そんなの気にしなくていい。俺が死んでるならまだしも、こうやって五体満足で生きてるんだ。手も足もちゃんと動く」

「…………」


 潤んだ瞳に向かって手を開いたり握ったりして、無事であることを証明する。


 もしかしたら、後遺症があるかもしれない。でも、晴は生きている。


 生きているなら、


「お前が無事で、俺はまた小説が書ける。なら、何も気にするな」

「――――」

「返事は?」


 今にも泣きそうな美月に、晴はその顔を見つめて問いかける。

 美月は強く唇を噛んで、肩で息を整えると、


「はい」

「ん。それでいい」


 震える声で返事した美月に、晴は柔和な笑みを浮かべて少女の頭に手を置いた。

 そのまま、晴は己の胸に美月の頭を抱き寄せた。


「怖かったろ」

「――はい」


 問いかければ、胸の中で美月が静かに肯定した。

 顔が隠れているからか、美月は少しずつ胸裏を吐露していく。


「本当に、貴方が生きていてよかった。……目を覚ましてくれてよかった」

「あぁ」


 美月の声が震えて、上擦っていく。


「もしかしたら死んじゃうかもって、すごくっ……すごく怖かった」

「あぁ」

「ずっと怖くて。晴さんが死んだらどうしようって」


 じんわりと、胸に熱い何かが広がっていく。


「晴さんを支えるって約束したのに。やっと仲良くなれてきたのに。なのに、その全部が終わると思ったら怖くて仕方がなかったんですっ……まだ、晴さんの小説を読みたかったのに、たくさん、小説を書いて欲しかったのにッ」

「生きてるから書けるぞ。俺を故人にするな」

「知ってます。こうやって私を抱きしめてくれてますから」


 涙を流す美月を優しく抱きしめ続ければ、美月も晴の背中に腕を回した。

 そして、晴の温もりを全身で確かめるように、嗚咽交じりに叫ぶ。


「生きててくれて良かったッ……晴さん! 晴さん!」


 あの日とは違う、安堵を吐露する鳴き声に、晴は美月の頭を撫でる。


「好きなだけ泣け。それで、泣き止んだら笑顔を魅せてくれればいい」


 それが晴が美月に望むことで、その為に命を懸けて守ったから。

 そう伝えれば、美月は胸の中で強く頷いてくれた。


「はい。泣き止んだら、ちゃんと笑顔を魅せます。……なので、今はもう少し、このままでいてもいいですか?」

「好きなだけ甘えてくれ。いつもお前に世話されてるし。今ばかりはお前が俺に甘える番だ」

「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますね」


 微笑んだあと、美月はまた泣き叫んだ。何度も何度も、晴が生きている事に感謝しながら。


 ――ありがとな、美月。


 こんなにも誰かに心配されていると教えてくれた妻になる者へ、晴は胸の中で感謝するのだった――。


 ▼△▼△▼▼



 ――数十分後。泣き止んだ美月はずびっ、と鼻を啜ると、


「私、晴さんに言いたいことがあります」

「なんだよ」


 つい先程言いたい事は全部吐いたと思ったが、美月はどうやらまだあるらしい。


「重大なことですので、覚悟が決まったら決まったと言ってください」

「決まった」

「早すぎます」


 別に身構える必要なんてないだろ、と文句をいえば美月が不服そうに頬を膨らませる。


 いったい何なんだと辟易すれば、晴は仕方なく深呼吸した。


 深く息を吸って、長く吐く。閉じた瞳を開けば、真っ直ぐに美月を見つめて、


「決まった」


 告げれば、美月は小さく頷いた。

 それから、美月は紫紺の瞳を大きく揺らすと、柔和な笑みを浮かべて――


「――私たち、結婚しましょう」


 その言葉に、晴は目を瞬かせた。

 一瞬、何を言われたのか理解出来ずに固まると、脳内で美月の言葉を反芻して、


「もうしてるだろ」

「してませんよ」


 は? と怪訝な声で返せば、美月は淡々と言う。


「私はまだ婚約者なので、結婚してません。籍も入れてないじゃないですか」

「そういえばそうだったな」


 指摘されて晴もようやく納得する。たしかに晴と美月はまだ正式に結婚してなかった。


 しかし、


「結婚する、とは言うがお前はいいのか? 俺でも」

「はい。晴さんがいいです」

「後悔するかもしれないぞ。俺と一緒にいること」


 自嘲するように言えば、美月は確固たる意思で首を横に振った。


「しません。私は、晴さんの隣にいたいです」

「――――」


 その覚悟を宿した眦に、晴は呆気にとられる。


 晴が眠っている間に美月にどういう変化があったのだろうか。いつ終わってもおかしくない関係だと儚そうに言っていた彼女とは別人のような心境の変化に晴は戸惑う。


「慎に何か吹き込まれたか?」

「いいえ。私の意思で晴さんと結婚したいです」


 揺らがぬ瞳を見つめれば、それは本音であると理解できた。


 本当にどういう意図があるのかと逡巡する晴に、美月はしびれを切らしたように「もうっ」と頬を膨らませた。


「なんで私が結婚しようと言ってるのに素直に頷いてくれないんですかっ」

「いや魂胆が見えないから」

「裏なんてありませんよ。これからも晴さんを支えていくことを約束しているだけです」

「なんでこんな執筆バカと結婚しようと思うんだよ」


 支えてくれると言ってくれるのは心底嬉しいが、やはり解せない。

 そんな懐疑心を抱く晴に、美月は「いいですか」と睨んだ。


「晴さんが執筆バカなのは知っていますし、私より小説を優先するのも知っています。それに関しては不満がありますが、でもそれは執筆病だから仕方ないと納得しています」


 それはおいおい治すとして、と美月は継いで、


「執筆バカで、小説のことしか頭にない貴方ですけど、それでも私は一緒にいたいです。結婚するのに、それ以上の理由がありますか?」

「――――」


 ただ一緒にいたいからと、そう告げてくれる美月に晴の胸裏がざわつく。


 こんな晴でも一緒にいたいと言ってくれるのは、きっと世界中で美月しかいないと思う。


 晴も、支えられるなら美月がいいと思うから。だから――、


 ふっ、と思わず失笑が零れると、晴は眼前の婚約者に告げた。


「分かった。結婚しよう。ただし、俺を見捨てるなよ?」


 ラブコメ作家なのに、実に決まらない台詞だ。けど美月は嬉しそうに微笑んでくれて。


「――はい。これから末永くお願いします、晴さん」

「ん。宜しく」


 夜空に浮かぶ月のような美しい微笑みを浮かべる美月に、晴は小さな笑みを溢して淡泊に返したのだった――。

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