第333話 『 お粥なら食べられますか? 』
――休日。
今日もミケ宅へアシスタントをしに行くが、やはりミケは部屋にこもりっぱなしでキッチンに行けば食事を取った痕跡すらもない。
集中しているのだと理解するのと同時、やはり胸には漠然とした不安が募る。
徐々に悪化の一途を辿るミケ。同じ家にいるはずなのに顔を合わせる回数は減って、見る度に目の隈が酷くなっていた。
頭が警鐘を鳴らしている。もう、放置できる状況ではないと。
「――ふぅ」
襖の前で一度深く息を吸って、そして深く吐く。
閉じた瞼をゆっくり開けると、冬真は頬を固くしながら襖を叩いた。
「ミケ先生。少しお時間よろしいですか」
応答はない。
もしかしたら音楽を聴きながら作業をしている可能性もあったが、それは杞憂だった。
呼びかけて数秒後。襖の奥から足音が聞こえて、近づいてくる。
そして襖が開けば、わずかな照明だけが頼りの暗い空間からミケが出てきた。
「なんすか?」
久しぶりに聞いた彼女の声は、以前の明るい声音とは対照的に擦れた声音だった。
それに胸の奥が締め付けられながらも、冬真はおずおずと尋ねる。
「ご飯、ちゃんと食べてるかなと思って」
「にゃはは。ちょっとブラッシュアップしたい絵が何枚かあって。そっちに時間掛け過ぎてすっかり忘れてました」
申し訳なさそうに答えたミケ。
苦笑を浮かべる彼女に、冬真は拳を強く握りしめながら質問を続けた。
「食欲あるなら、ご飯用意します」
「……今はちょっと、あんましお腹空いてないっす」
ぎこちない応答の繰り返し。それからミケは冬真を心配させまいと慌てて、
「あ、後でちゃんと食べるっす! なので、おにぎりとか作っておいてもらえれば……」
「しっかり栄養のあるものを摂らないとダメです」
「わ、分かってるっす。今やってる作業が終わったら、ちゃんとしたもの食べるんで……」
「それ、いつ終わるんですか」
「それは、もうちょっと掛かると思う、っす……」
「それ、一週間前も同じこと言ってましたよ」
「いや、そうでしたっけ……にゃ、にゃはは……」
淡々と追求すればミケの語勢がみるみる萎んでいく。
視線すら合わせなくなったミケに、冬真は懇願するように言った。
「せめて、ご飯くらいはきちんと食べてください」
「わ、分かってるっす! でも、さっきも言った通り今は食欲があんまりなくて……」
逃げようとするミケをこのまま見逃すことはできる。
けれど、そして逃がして次にいつ襖から出てくるかは分からない。
だから、心を鬼にしてでもミケを逃がす訳にはいかなかった。
「お粥なら食べられますか?」
「…………」
「食べられますか?」
もう一度、しかしわずかに圧を込めて問いかければ、ビクッとミケの肩が震える。
「た、食べられるっす!」
「分かりました。すぐに用意するので、少しだけ待っててください」
「りょ、了解っす。絵を描いて待って……」
「リビングでじっとしててください!」
「はいっす⁉」
ビシッ、とリビングを指さしながら強く言えば、ミケは部屋から飛び出した。
ようやく薄暗い部屋から出てきたミケに安堵しつつ、エプロンを纏う。
「それじゃあ、お粥作ってきますので、少し待っててください」
「わ、分かったっす」
ご飯の用意とキッチンに向かおうとした直前、冬真は一度足を止めると、
「僕が作ってる間に絵描いたら、怒りますからね」
「描かないように両手縛っておくっす!」
「何もそこまでしなくてもいいですけど、でも絵を描いてるの発見したら仕事道具没収しますからね」
「冬真くんの鬼⁉」
「鬼でも悪魔でも魔王でも、それでミケ先生の体調が良くなるならなんでもいいです」
泣き叫ぶミケに嘆息して、冬真はキッチンに向かう。
そんなアシスタントの背中を見届けるミケは、
「……今日の冬真くん。いつになくピリピリしてるっす」
その理由が分からないまま、茫然と立ち尽くするのだった。
▼△▼△▼▼
二十分後。
時々スケッチブックを手に取ろうとするミケを監視しながらもお粥を作り上げれば、冬真はそわそわとしているミケの前に、お粥と卵焼き、それと鮭の塩焼きをテーブルを並べた。
「くんくん。なんていい匂い! 正直あんま食べる気なかったっすけど、これ見たら急にお腹減ってきたっす!」
食べていいっすか⁉ と催促するミケに、冬真は「どうぞ」と顎を引く。
いただきます、と手を合わせたミケは、そのまま勢いよく食べ始めた。
「ふー。ふー。……うまうま⁉」
食欲が無いと言ったのが嘘のように、ミケはお粥を食べ進めていく。
「くぅあ~。やっぱ誰かの手料理は最高っすねぇ」
「お茶もこまめに飲んでくださいね」
「はむはむっす!」
まだ口にものを含んでいるミケは、喋れない代わりに敬礼する。
もくもくと食べ進めるミケ。まるでお腹を空かせた子どものような彼女を見つめながら、冬真はぽつりと呟いた。
「ミケ先生。今って、食べることを忘れるくらい忙しいんですか?」
「…………」
無意識に口から出た問いかけに、ミケは一度手を止めると、
「今に限った話じゃないんす。昔から、締め切りとか絶対クオリティの上げたいものがあると夢中になっちゃって」
それで休むことはおろか、食事すらも忘れてしまう事があるらしい。
「いやぁ。ズボラって怖いっすよね」
「ズボラの人でもご飯はしっかり食べると思います」
「すんません」
淡泊に返せば、ミケは申し訳なさそうに謝った。
「謝って欲しいとかじゃないんです。……僕はただ、ミケ先生に無茶はしてほしくないんです」
無茶に慣れた人間は恐ろしい。まだ頑張れる、まだやれる――そんな慢心が、ある日突然、心より先に体が限界を迎えて倒れる可能性があるから。
「ミケ先生が絵を描くのが好きで止まれないことはもう分かってるんです。でも、それでもし倒れたら……僕はっ……」
あるかもしれない可能性。それが脳裏によ過った瞬間、目頭が熱くなった。
胸の奥で奔流する感情を必死に抑えようと、強く拳を握って、奥歯を噛む。
冬真はミケのアシスタントだ。けれど、アシスタントなだけで、彼女の隣に立っている訳ではない。
隣に立ってない自分には止める権利などないから、こうして奥歯を噛むことしかできなかった。
その歯痒さが、ただただ腹が立つ。
冬真にできることはせめて、ミケの家を掃除して綺麗にして、仕事がスムーズに進めるように資料を用意して、こうして温かな料理を出すくらい――その全ては結局、彼女の重責を軽くすることはなくて。
アシスタントなのに、ミケを楽にしてあげることはできなかった。
「――冬真くん」
無力感。それに押しつぶされそうになる冬真の耳朶に、ミケの優しい声が耳朶に届く。
顔を上げれば、ミケは冬真のことをじっと見つめていて。
「私のこと、心配してくれてたんすね」
「当たり前じゃないですかっ。ミケ先生は僕にとって大切な人なんですから」
上擦った声で言えば、ミケは少し照れたように頬を掻く。
「そんなに想われたなんて知らなかったっす。いやはや、やっぱ自分はダメな女っすね」
「ミケ先生はダメな女じゃありませんっ」
「ダメ女っすよ。こうして、キミを泣かせてしまってるんすから」
「まだ泣いてないです」
必死に涙をとどめているから、泣いてない。
目尻から落ちようとする雫を堪える冬真に、ミケは「そっすね」と小さく笑いながら、
「これで、涙はなくなりました」
不意に伸びた手。白くて、華奢な手は冬真の頬に触れると、その指先が涙を拭った。
微笑みを浮かべるミケは、それから、
「心配させてごめんなさい」
深く、深く頭を下げた。
そして顔を上げると、冬真を真っ直ぐに見つめながら言った。
「今日はもう、それと明日はちゃんと描かないでちゃんと休むっす」
「ほ、本当ですか?」
「はいっす。お恥ずかしい話。実は数日くらいは描かなくても大丈夫なくらいには落ち着いてるんす」
それでも描かないといけないという衝動に駆られていたから、ずっと部屋に引きこもって描いていたらしい。
涙を必死に堪える冬真。そんな冬真にミケは少し距離を詰めると、躊躇う素振りをみせながら手に触れてきて、
「なので、明日は私と、一緒にいてくれますか?」
「――――」
揺れる黒瞳がそう問いかけてきて、冬真は目を見開く。
「……僕が、一緒にいていいんですか?」
不安げに問い返せば、ミケはこくりと頷いた。
「はい。一緒にいて欲しいっす。私一人だときっと、することがなくて絵を描き始めてしまうと思うので」
つまり、冬真に自分がしっかり休めるように監視して欲しいということだろう。
それは冬真が期待する意味とは違ったが、胸に広がったのは落胆よりも歓喜だった。
何故なら、ミケのその懇願は、彼女が自分を必要としてくれることの何よりの証明だったから。
だから、冬真は手の甲に触れるミケの手を強く握って――
「分かりました! 明日は絶対、ミケ先生にしっかり休んでもらいます!」
目元を真っ赤にしながら、そう誓う冬真に、ミケは嬉しそうに「ありがとうっす」とほほ笑んだ――。
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