第92話 『 自覚無しなのも悪いところ 』



 美月と穏やかで充実した日常は、八月に差し掛かる直前に失われた。


「た、大変です晴さん!」

「どうした?」


 リビングで執筆するのも慣れて、今日も執筆中の晴の耳元に美月の切羽詰まった声が届いた。

 いったい何事かと眉根を寄せれば、美月は荒い息を繰り返しながら言った。


「お母さんが来るそうです!」

「ふーん」

「反応薄っ⁉」


 淡泊な返事すれば、美月が大仰に驚く。


「なんで焦る必要がある。部屋綺麗だろ」

「逆になんで貴方はいつも通りでいられるんですか?」


 少しは焦ったらどうですか、とジト目を向けられても、晴は変わらずに平然としたまま。


「いつでも遊びに来てください、って結婚の挨拶しに行ったとき言ったし」

「貴方は私以外の女性にはとことん紳士ですよね」

「失礼だな。お前にだって最近は慮ってるだろ」

「なんで最近なんですか。婚約者であった時から紳士にしてくださいよ」

「その時も俺なりに気は遣っていた」

「欠片も感じられませんでしたよ」


 辟易とする美月に晴は心外だなと鼻を鳴らした。

 夫婦喧嘩もほどほどに、本題に戻ろう。


「それで、華さんいつ来るんだ?」

「明日です」

「随分とまあ急だな」

「本当ですよ、まったくもう」


 それなら確かに美月の焦り様にも納得できた。

 この間のパーティといい、件の義母お宅訪問といい、今年は唐突な出来事が多い気がした。

 まぁ、その中で最も電撃的だったのは晴自身の〝結婚〟なのだが。

 忙しない日々に目が回りそうになりながらも、晴はパン、と手を叩いた。


「ま、部屋はいつも綺麗にしてるから問題ないだろ。でも、どうして急に来たいと言い出したんだろうか?」

「母曰く『久しぶりに有給使ってゆったりしようと思ってるの。まずは手始めに貴方たちの結婚生活を視察~』とのことです」

「ふはっ。なんだそれ」


 どうやら愛娘に会いたくて連休を取ったそうで、思わず笑ってしまった。


「(華さん、やっぱり美月と離れて寂しかったんだろうな)」


 それならば、晴も準備しなくてはならない。

 とはいっても、晴にできることは何もないが。


「華さん、家には泊まるのか?」

「本人はそのつもりみたいですよ」

「そっか」


 できるならそれを家主である晴に直接連絡してほしかったが、華としては晴より愛娘の声を聞きたかったのだろう。

 華が家に泊まるのも問題はないので、すんなりと承諾する。

 あとは、


「美月。華さんてお酒飲むのか?」

「いえ。お母さんは滅多にお酒飲みません。まぁ、私がいたから遠慮してたというのもあるでしょうけど」

「なら、せっかくだしお酒でも用意しよう」

「……本当に貴方は私意外だとつくづく気が利きますね」

「悪かったよ。今夜はとことん甘えさせてやるから」

「お、お手柔らかにお願いします」

「……なんか勘違いしてるけど、面白いから黙っておくか」


 晴の言葉の意味を瞬時に理解した美月はボッ、と顔を赤くする。

 別にそういう意味ではないのだが、晴はわざと否定しなかった。いくら避妊具は付けて臨んでいるとはいえ、一カ月にそう何回もすると思わぬ事故で愛の結晶ができてしまうかもしれない。なので、夜の営みはしっかり計画的に実行しなければ。


「で、お酒はビールとワイン、好みはどっちか分かるか?」

「たしか、たまに飲んでるところを見た時は、ワインが多かった気がします」


 華さんにワイン。脳内でその構図を思い描いていると異様にしっくりきた。

 ワインね、と呟いて晴はパソコンを閉じると、


「とりあえず、今から華さんが喜びそうなワインとかその他諸々買いに行くか」

「え、今からですか?」

「不満か?」


 ジト目を向ければ、美月は「いえ」と懐疑的な目で晴を見てきた。


「貴方がお昼から行動するのが珍しくて」

「これも歓迎の為だ」

「いつも夕方しか外に出ないくせに」


 拗ねた美月が口を尖らせた。


「拗ねるな。ほら」


 手を差し出せば、美月はぱちぱちと目を瞬かせる。


「ただの買い物。でも、お前と行くならデートになるんだろ」

「――っ」


 大きく揺れる、紫紺の瞳。

 その瞳は恥ずかしそうに伏せたあと、上気した頬を覗かせながら晴の手を握った。


「貴方はズルい人です」

「何がだ」

「私をいつも喜ばせるイジワルな人」

「俺としてはそのつもりないけどな」

「自覚無しなのも悪いところ」


 ラブコメ作家はそういう感性が狂うかも、と胸中で思っていると、美月は顔を俯かせたまま呟いた。


「準備始めたら、この手が放れちゃいますね」

「なら、もう少しこのままでいるか? 夕方から買い出しに行ってもいいけど、それだとお前大変だろ」

「親愛度マックスになると私への気遣いも増す」


 照れている美月に、晴は黒髪にぽんと手を置くと、


「俺への親愛度をマックスにした奥さん。俺と出かけるんですか、出かけないんですか?」


 意地悪に問い掛ければ、美月はようやく顔を上げた。

 その顔には、割れんばかりの笑顔が咲き誇っていて。


「行きます。一緒に、貴方とお出かけがしたいです」

「素直にそう言うこったな」


 破顔する美月に、晴は口許を緩めるのだった。

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