第107話 『 こうしてのんびりするのも悪くはありません 』

 

 ウォータースライダーには乗ったが、結局その一回切りで疲れてしまって晴。そして今は美月と浅瀬で小さな言い合いを始めていた。


「つか、今更だけどお前運動音痴だったんだな」

「違います少し運動が苦手なだけです」

 むすっとした顔で返した美月。

「あんな大振りするやつ初めて見た」

「もうっ! いつまでも過ぎた話を掘り返さないでくださいっ」


 癇癪を起した美月に腕をポコポコと叩かれるもあまり痛くない。されるがままの状態で美月の機嫌が戻るまで待とう、と思っていると今度は拗ねてしまって。


「運動は苦手ですけど、貴方より体力ありますもん」

「力も強いしな」

「あ、今私のことゴリラ扱いしましたね。罰として制裁です」

「容赦ないなお前ぇ」


 鉄拳が左腕を強打してきて、結構な威力に堪らず呻き声がもれた。


「貴方が女性を紳士に扱わないのが悪いんですよ」

「悪かったよ。お前は可愛い。これで満足か」

「ふん。ご機嫌取りにそんな見え透いたお世辞貰っても全然嬉しくないんですからね」

「とか言いつつ満更でもなさげじゃねえか」


 少しだけ口許を緩ませた美月に晴はやれやれと肩を落とす。


「で、お前は俺に何をして欲しい訳?」

「え?」


 早々にご機嫌を取れと要求される前にそう聞けば、美月は目を見瞬かせた。


「何呆気喰らってたんだ。お前を丁重に扱わなかった俺になんか要求するんじゃないのか」

「私ってそんな我儘な女王に見えますかね?」

「どちらかというと甘えたがりな猫って印象だ」


 これまでは甘えたいのかそうかはよく分からなかったが、最近の美月は頻繁に晴に甘えてこようとする。ご主人様ラブと言った感じだ。


「べ、べつに甘えたがりじゃないです。ただちょっと、貴方とずっと一緒にいたいと思ってるだけで……」

「じゃあ合ってるだろうが」

「うぐっ」


 呆れながら指摘すれば美月がたじろぐ。


「甘えたいなら素直にそう言ってくれた方が俺としては助かる。プールに来たものの、特にやりたい事もないしな」

「結局ウォータースライダーも一つしか乗ってませんしねぇ」

「一つ乗れば十分だって気が付いた」

「……本当に貴方という人は」


 体を動かす事も大声出すこともあまり得意ではないので、晴としてはのんびりしている方が性にあっていた。今みたく。


「私たち、結局浅瀬で水に浸かってるだけですよね」


 途方に暮れたような顔で美月が現状を伝えてくれた。


「だってお前泳げもしないんだろ」


 また美月がうぐ、とうめいた。


「浮き輪があれば泳げますもん」

「じゃあ泳ぐ練習するか」

「えぇ。それだと構図が逆になりません?」


 なんの構図だよ、とツッコめば、美月はくすくすと笑いながら言った。


「引率者の構図ですよ」

「なんで俺が子どもでお前が大人なんだ」

「あら子どもって自覚はしてるんですね」


 揶揄う美月にバツが悪い顔をすれば、また彼女は愉快げに笑った。


「でも、貴方に手を引かれながら泳ぐというのは悪くないかも」

「そうか。俺はこうして浅瀬でのんびりしてるのも悪くない」


 腹立たしい程に燦然と照りつける太陽の元で、冷たい水とどこからともなく吹く風がなんとも気持ち良かった。

 それに、こうして美月と他愛もない会話をしながらゆったりと時間の流れに身を預けるというのは、不思議といつまでも続けられるなと思った。

 そして、どうやらそれは美月も同じようで。


「そうですね。こうして貴方とのんびりするのも悪くはありません」

「……冷てぇ」


 えい、と水を掛けられて、淡泊に呟いた。

 くすくすと笑う美月。その姿は水面に反射する光を受けてより美しく見えて。


「そうだ。言い忘れた」

「何がですか?」


 はて、と小首を傾げる美月に、晴は優しい目を向けて言った。


「水着。めっちゃ似合ってるぞ」

「ふふ。今更ですか」


 忘れていた感想を思い出して伝えれば、美月は目を見開いた。少しだけ驚いて、すぐにいつもの顔に戻る。


「似合ってないんじゃないかって、少し不安でした」

「お前は大抵のものは似合うだろ」

「あら嬉しい言葉」

「事実だ」


 それが嬉しいんです、と美月は微笑みながら返す。


「今日の為に頑張って選んだ甲斐がありました」

「俺を悩殺できるチャンスだからか?」

「さ、さぁ」


 たぶん的を射ているのだろう。露骨に視線を逸らす美月に晴は失笑した。

 本人はプライド故に是としないのだろうが、本心が露呈すれば晴としてはそれに応える方法は一つしかない。


「(俺の為に選んだなら、それに報いることくらいはしないとな)」


 時間的にもあと一時間くらいで慎たちと再び合流しなければならない。なら、それまでの時間だけは――


「ほら、行くぞ美月」


 立ち上がると、晴はまだ座っている美月に手を指し伸ばした。

 きょとん、と小首を傾げる美月は、その手を取る前に訊ねた。


「どこに行くんですか?」

「どこにでも。お前の遊びたい場所でいい」

「いいんですか?」

「時間あるからな。俺はやることも特にないし、後の時間は全部お前にくれてやる」

「――っ」


 相変わらず淡泊に答えれば、美月の紫紺の瞳が大きく揺れた。

 それから美月は、くすりと口に三日月を描くと差し出した手を握って立ち上がった。


「それなら残りの時間は、貴方とプールデートがしたいです」

「ん」


 慎たちと合流する残りの時間。特に予定もない晴は、妻の要望をすんなりと受け入れた。

 それから、夫婦はプールを満喫すべく水を蹴って歩み始めたのだった――。

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