第179話 『 煮詰まった時こそ、気分転換のデートです 』

 

 ここ数日。旦那の様子がおかしい。


 不愛想な顔は今更だが、最近はずっと眉間に皺が寄っていた。


 リビングで執筆している時も、いつもは数時間ほどキーボードを叩く音が鳴り止まないが、ピタリと止まる時が頻繁にあった。


 それに、ボーと呆けている時間も増えた気がする。


 調子が悪いのだろう、と思いそっとしておいたが、先日カーペットに寝転がりながら「うあぁぁ」とか「ぷしゅぅぅぅ」などと奇声を発している旦那の奇行を見てしまえば流石に美月も看過できなくなってしまった。


「……あの、晴さん」

「なんだ?」


 休日。普段ならこの時間はとっくに執筆を始めているだが、今日は珍しくパソコンの前ではなく美月の隣にいた。


 執筆する気がない……というより調子が上がっていないように見える晴に、美月は躊躇いつつも尋ねた。


「最近、全然書いてないようですけど……もしかしてスランプですか?」

「そういう訳じゃない」


 不安を抱えながら問えば、晴は険しい顔をしながら首を横に振った。


 それが答えのようなものだ、と思いつつ美月は続ける。


「でも、最近よく手が止まってますよね?」

「【微熱に浮かされるキミと】は問題なく書けてる……ただ」

「ただ?」


 小首を傾げれば、晴はガシガシと後頭部を掻きながら大きな息を一つ吐くと、諦観したように吐露した。


「……新作が、うまく書けてない」

「新作、ですか」


 吐露された言葉に目を瞬かせれば、晴はこくりと頷く。


 なるほど、晴が最近何かに思い悩んでいたのは新作のことだったのか。


「スランプじゃなくて安心しました」


 スランプになった作家にどう寄り添えばいいのか、美月にはまだそれが分らないので、ひとまずは胸を撫でおろす。


 けれど、晴は苦虫を噛んだような形相をしていて。


「まぁ、作業が滞ってるという意味では似てるがな」

「今連載中の方がしっかり書けているのなら問題ないのでは?」

「それはそうだが……でもできるだけ早く作っておきたいんだよ」


 新作を発表なり書籍化させる、となれば当然イラストレーターを誰に担当してもらうかなど、どういう構成で進んでいくのかといった諸々のスケジュールを組むことになる為、やはり可能な限り早期決定の方がいいらしい。晴の担当編集者でもある文佳の負担も減るから。


 小説家も大変だな、と胸中で呟きながら、美月は晴の顔を覗き込みながら訪ねる。


「どういうものを書こうとしてるんですか?」

「前に一度、俺がお前にどういう風に小説を作ってるか教えたことあるだろ。その時に頭に浮かんだ作品だ」


「あぁ、たしか【破滅に向かう機械人形マシンドール】、でしたっけ?」


 それともう一つタイトルを考えていた気がする。

 必死に思い出そうとしていると、晴はそんな美月に微笑を浮かべながら答えた。


「それをブラッシュアップさせたやつを書こうとしてる。タイトルは【破滅に誘う終末人形ヴァルキュリードール】」

「面白そう」


 と目を輝かせながら呟けば、晴は「当然だ」と微笑みながら頭を撫でてくる。


 晴は自分の作品に絶対のプライドがある。自分の書くものは全て面白いと。一見すればただの自尊心の強い言葉に聞こえるが、しかし、晴の書く小説は事実多くの読者を魅了させている。


【稀代の天才作家】と謳われるのは、彼の自尊心からなるものではなく、周囲の評価によって築き上げられた二つ名なのだと、改めて強く感じた。


 けれど、そんな天才作家にも苦悩する時間は訪れるようで。


「文佳さんからも、慎からも面白いって言われた。このまま連載しても問題ないだろうとも……でも、正直迷ってる」

「どうしてですか?」


 促せば、晴は珍しく弱々しい声音で答えた。


「これが本当に書きたいものなのか、よく分からない」

「でも、面白そうだと思ってるから作ってたんでしょう?」

「あぁ。でも、書けば書く程、なんというか……自信がなくなってきて」

「――――」


 何かに思い悩むような、躊躇う姿勢の晴を見るのは初めてだった。

 いつも美月が呆れるくらい小説のことばかり考えていた晴が、初めてみせる逡巡。


 ――こういう時、自分はどうしてあげればいいのだろう。


 たぶんこれは、美月にはどうしようもできない晴自身の問題だ。


 健康や体調、日々の生活は支えられるが、小説の悩みに美月が手を差し伸べられることは少ない。


 今の美月が晴にできることはきっと、そっと見守ってあげるくらい。

 それでも、何もしないままというのは嫌だった。


 だから、


「晴さん、お散歩しませんか?」

「散歩? 今からか?」


 唐突に、晴へそんな提案すれば、彼は眉根を寄せる。

 はい、と頷いて、美月は真っ直ぐに紫紺の瞳を晴に向ける。


 美月にできることは、晴を支えることくらい。

 妻として、晴には真っ直ぐ自分のやりたい事に突き進んでいって欲しいから。


「煮詰まった時こそ、気分転換にデートです」


 今日は自分の為ではなく、晴の為にデートをしよう。


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