第79話 『 本当に貴方は大きな子どもですね 』
――土曜。朝。
「――ん」
「おはようございます、晴さん」
既に晴より先に起きていた美月は、柔和な微笑みを浮かべていた。
「おはよう……」
「ふふ。まだ眠たそう」
「いや、そんなに眠くない」
思っていた以上に意識は鮮明だった。
ただ瞬く瞼は相変わらず重かった。
「お前、なんでいつも俺より早く起きてるんだ」
「なんででしょうねぇ」
「どうせ俺の寝顔でも見てるんだろ」
しれっと言えば、美月は「そんなことありませんひょ」と噛んだ。
顔を赤くするから、晴の指摘は正しいのだろう。
「俺の寝顔見て楽しいか?」
「はい。楽しいです」
「確信犯だな」
あ、と美月はうっかり見ていた事を白状してしまって口に手をあてた。
「今度はお前より先に起きて、俺が堪能してやろうかな」
「えぇ。晴さんに早起きができますかねぇ」
「今七時には起きてるだろ」
「私のおかげですけどね」
反論できずに口ごもる。
美月と朝食を摂るようになって、こうして安寧をくれたおかげで、晴は朝もすっきり起きれるようになった。それには感謝している。
ひしひしとそれを痛感していると、美月が問いかけてきた。
「どうしますか? 今日も、このままゆっくりしますか?」
「どうするか」
悩めば、美月はくすくすと笑っている。
「あの晴さんが、休むことを考えるようになるとは」
「誰のおかげだと思ってる」
「私のおかげですね」
「その通りだ」
美月のおかげで、忘れていた当たり前を思い出せるようになった。
狂ったまま動いていた歯車が、正常に戻る感覚。それは存外心地のいいもので。
その感謝の印と、晴は美月の額に口づけした。
「親愛度マックスになると晴さんは自分からキスしてくれる」
「前は自分からしなくて悪かったな」
美月が感慨深そうに言うので、晴はバツが悪くなる
これからは、もっと美月と手を繋ぎたいと思うしキスもしたいと思う。
それに、こうした愛を求め合う行為も。
でもそれだけは、ちゃんと計画的でないといけない。そうでないと、大惨事を招いてしまいそうだから。
そんな畏怖はありながらも、とりあえず、今日は美月と一緒にいたかった。
「体は平気か?」
「親愛度マックスになると気遣いも増す」
「茶化すな。倦怠感とかないか?」
おどける美月を制止して問えば、美月は「はい」と肯定した。
「体はどこも痛くありませんよ。晴さんがちゃんと優しくしてくれましたから」
「まだ上手いとはいえないけどな」
「余裕ない晴さん可愛かったなー」
行為の最中に嫣然と微笑んでいたのは晴の無様な顔を見ていたからか。
小悪魔な美月のほっぺたを抓りつつ、晴はジト目を見受けると、
「今度するときは絶対お前感じさせるからな。覚えてろよ」
「昨日もちゃんと感じてましたけど……」
「それ以上だ。覚悟しとけ」
「お、お手柔らかにお願いします」
本気の目で訴えれば、美月は頬を引き攣らせていた。
それから、晴はふっ、と微笑をこぼすと。
「体は平気なんだな」
「むしろ愛されたおかげで元気です」
なら、せっかくの休日だから家に引きこもるのも勿体ない。それはそれでいいけど。
でも、晴としては美月も大事にしたいから。
「今日は、水族館でも行くか」
「あの晴さんが自分からデートの提案を⁉」
「じゃあ行かない」
「嘘です! 嘘! 行きましょう、水族館!」
拗ねてそっぽを向けば、美月は目を白黒させる。
慌てふためく美月がただ愛しいから、
「あんまり俺を揶揄うと、いつか痛い目に遭うからな?」
そう意地悪に口許を緩めて、美月の首元にキスマークを残すのだった。
▼△▼△▼
デートと資料集めを兼て、晴と美月は水族館に来ていた。
「魚がいっぱいだ」
「もっと小説家らしい感想はないんですか?」
淡泊な感想に美月が苦笑をこぼす。
「魚見てるんだからその感想以外にないだろ」
「それはそうですけど……ならヒトデでも触りに行きますか?」
「興味はあるけど少し怖い」
晴さんでも怖いものあるんですねぇ、と美月が意外だと目を丸くする。
「俺は好奇心で動く塊じゃない」
「しっかり考えたり予測してから動く人ですもんね」
「そんな俺が未知のものに触れたいと思うか?」
「でも小説のことになれば?」
「触ってみたい」
「じゃあ行きましょう」
この妻は晴の思考などお見通しなので、小説を餌にして強制的に頷かせてきた。まだ躊躇う晴の手を引っ張りながら、美月はヒトデやナマコが触れる触れ合いコーナーに連行していく。
「さ、触ってみましょうか」
「お前は触ったことあるのか?」
「小学校の遠足に行った時に一度」
「どんな感触だった?」
「それは自分で確かめないと」
逃げようとする晴を美月は逃がさない。
「……ヒトデが俺を見ている」
「大丈夫。死んだ顔の貴方を同類と思ってます」
「さりげなく傷つくこと言うな。あと俺は人間でコイツはヒトデだ」
「動かなさでいったら同類でしょう」
「お前えぇぇ」
むしろヒトデのほうがよく動いてると思います、と美月はニコニコしながら罵倒してくる。
「ほら早く」
「ちょ、俺のペースで触れさせろ」
「大丈夫。怖くなーい。怖くなーい」
「子どもみたいに扱うな」
ゆっくりと指を近づければ、尻込みする晴の腕を掴んで美月が無理矢理触れさせようとしてくる。
必死に抵抗する晴。そんな晴を愉しそうに揶揄う美月。傍から見ればイチャイチャしているようにしか見えないが、晴にとっては今、試練の真っ最中だった。
そして、震える指の先がやっとヒトデと邂逅した。
「……硬いな。いや柔らかい?」
「ね、不思議な感触ですよね」
やっとの思い出ヒトデに指先が触れれば、そのなんともいえない感触に好奇心が疼く。
ザラザラとして、硬いようで柔らかい、感触は皮手袋に近い気がした。無抵抗で晴に触られっぱなしだが、晴の方は限界と手を離した。ちなみに、美月のほうは躊躇う素振りもなくヒトデと戯れている。
「ふふ。慌てる晴さん、見ていて楽しかったです」
「お前後で覚えてろよ」
今日は一段とテンションが高い美月をジロリと睨めば、美月はそんな視線を気にも留めずに挑発的に微笑みをみせる。
「あらあら、いったい何をされるんでしょうねぇ」
「骨抜きにしてやる」
「出来ますかね、晴さんに」
「今に見てろよ」
甘えたり、揶揄ったり、とにかく晴で遊ぶのが楽しい美月は猫ではなくイルカのようだった。
そんな旦那を玩具にする
△▼△▼△▼
イルカショーを見たり、アシカの給餌体験をしたり、ペンギンの散歩を見たり、美月とともに水族館を満喫すれば、あっという間に時間は過ぎてしまった。
「今日はたくさん遊びましたね」
「そうだな」
揺れる電車の中で、美月は今日、終始魅せていた微笑みを浮かべ続ける。でも少し、その笑みにも疲れが見えた。
楽しかったのはもう分かるから、それは聞かない。
「疲れたか?」
「たくさん歩きましたからね」
こくりと頷く美月は、晴にも同じ質問を投げた。
「晴さんも疲れたでしょう」
「なんで確定してるんだ」
「だって私より体力ないから」
その通りでぐうの音も出ない。
「疲れたけど、いい気分転換になったし資料も手に入った。他の作品の参考にできそうだ」
「満足してくれたらよかった」
美月は口許を緩めた。
「これで、明日から執筆捗れますかね」
「それは分からない。でも、書ける気はする」
思い出が増えていくばかりだから、きっと頭も良い方向に記憶を蘇らせてくれるはずだ。
それに、このデートをきっかけに書ける理由も増えた。
「お前のおかげで、もっと面白いものを書きたいと思えた」
「読者の為じゃなくて?」
眉根を寄せる美月。
晴は、それもそうだが、と継いで、
「お前は、俺が書くものを面白いと言ってくれる。もっと見たいと言ってくれる。なら、その期待には応えるべきだし、応えたい」
「――――」
「夫としても、小説家としても、お前が向けてくれる羨望に応えていきたい」
胸裏に誓った想い。それを形にするように、美月の手を握った。
読者の期待にも、文佳やミケの期待にも――全ての期待に応えたい。
それを背負っていく覚悟はとうの昔から出来上がっていたが、こうして美月といるとその覚悟が一層強くなっていく。
そんな晴の覚悟を、妻は優しく肯定してくれた。
「貴方を支えるのは私ですから、気が済むまで全力で書いて下さい」
「お前は本当に逞しいな」
「ふふ。もっと褒めてくれていいんですよ」
「いつも尊敬してるよ」
美月がいないと晴は死ぬから、だから美月に感謝しない日はない。
小説家として生きる晴の隣を、美月は美月なりのペースで寄り添い続けてくれる。決して離れようとはしないから、だから晴も、怯まずに前に進めた。
たくさん小説を書こう。
もっと面白いものを書こう。
小説は面白いのだと、世の中に伝えていこう。
頑張った分だけ、報われていくから。
もう、代償はなくていいから。
「――すぅ。――すぅ」
俺の小説は人を魅了できるのだと、それを証明したいから。
だから傍に見届けてくれ、と晴は伝えようとしたけれど、でも無理だった。
体力の限界を迎えて、微睡に呑まれてしまった晴を、美月は己の肩に手招く。
「ふふ。……まさかここで寝てしまうとは、本当に貴方は大きな子どもですね」
美月の呆れた声音は、どこまでも穏やかで優しかった。
「すぅ――すぅ――すぅ」
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