第78話 『 私と、したくありませんか? 』
「おい、放せ」
「嫌です」
週末。晩御飯も済ませた晴は自部屋に逃げようとすれば、美月にがっちりホールドされている状況だった。
「なんで執筆しようとしてるんですか」
「無性に書きたいからだ」
「ダウト。私から逃げようとしてませんか?」
「してない。してないから放せ」
「嫌です」
ぐぐ、と力づくで腕を振り払おうとしても、美月は抵抗してさらに締め付けてくる。あまりに締め付けられるから、異の中が逆流してきそうだった。
「ぐえぇ。お前力つよっ」
「あ、いまさらりとゴリラ扱いしましたね。罰として抱きしめの刑です」
「もうしてるだろ。ちょ吐く。吐くからもう少し力緩めろ」
うぷ、と限界を感じて白旗を挙げれば、美月は頬を膨らませつつも力を緩めた。でも、腕はまだ晴を拘束したままだ。
「疲れた……少し休憩」
「放しませんからね」
「立ったまま休めるか」
「一緒に座ればいいじゃないですか」
カニみたくぎこちない足取りでソファーに向かえば、晴はどかっと腰を下ろして、美月は拗ねた子どもみたく、くっついたままソファーに足を置いた。
「あんまりくっつかれると、俺も困るんだが」
「なんだか変です、晴さん」
「……うぐ。変じゃない」
上目遣いで追及されれば、晴は思わず呻き声がこぼれた。
厳しい視線からつい目を逸らしてしまえば、美月は「ほら」と口を尖らせた。
「やっぱり変」
「いつもと変わらないだろ」
いいえ、と美月はゆるゆると首を横に振ると、悲しそうな声音で言った。
「最近、どうして私と目を合わせてくれないんですか?」
「それはだな……」
説明するべきかと、晴は頬を掻く。
「言ってくれないと、私寂しいです」
「言いづらい」
「夫婦でしょ。秘密はナシです」
「お前ってやつは」
こんな甘えん坊な嫁になってしまった美月に晴は眉間に手を当てる。
晴の心情を知らない美月は「教えて」と、か細く甘い声で催促してくる。
これは非常に答えづらいし、男としても情けない気がして吐露したくはなかった。
でも、
「晴さん。私のこと嫌いになってしまいましたか?」
「んな訳あるか」
こんな雨に濡れた子犬みたいな目を向けられれば、答えるしかないではないか。
「分かった。言う。言うから離れろ」
「逃げたら明日のご飯全部抜きですからね」
「代償が大きすぎるぞ」
「貴方を逃がさない方法はご飯を人質に取ることです。あと小説」
悪魔みたいな妻に、晴はやれやれと嘆息する。
それから、晴はソファーの上で正座した美月に、自虐心に苛まれながらも白状した。
「そのな……お前に触れると、あれだ」
「あれ、とは?」
「……この間のことを、勝手に思い出してしまうんだ」
言葉を濁す晴に、美月ははて、と小首を傾げる。
顎に手置いて、「この間のこと……勝手に思い出す……」と晴の言葉を復唱し、理解しようとする。
数分掛けて、美月はぽん、と手を叩くと、
「晴さんのえっち」
「悪かった」
土下座した。
そんな晴に、美月は呆れた風に肩を落とした。
「まさか私を遠ざける理由がエッチしたことを思い出してしまうから、とは。童貞ですか貴方は」
「実際先週まで童貞だった」
「開き直らないでください」
「開き直ってない。事実を言ったまでだ」
顔を上げれば、美月はなぜか優越感に浸るような顔を浮かべていた。
おそらく、申し訳ない顔をしている晴に興奮しているのだろう。なんか本物の悪魔に見えてきた。
「小説のことよりも、私のことを考えてたんですか?」
「あぁ。おかげで、今週はちょっとペースが遅くなってしまった」
「それは大変ですねぇ」
口ではそういつつも、美月は満更でもなさそうだった。
「私のことばかり考えてたら、小説、ずっと書けないままかもしれませんね」
「それは困る」
「じゃあどうしましょうか?」
美月が、挑発するように問いかけた。
それは、なんだか誘われているように感じた。
まるで、美月も晴ともう一度愛したいとでも、そう迂遠に伝えているように思えて。
でも晴は、やっぱり女心を分かってはないから、
「原稿に集中する。だからしばらく仕事部屋に引き籠るわ」
「いやなんでそんな答えになってしまんですか⁉」
「小説家は締め切りとか切羽つまると缶詰状態になるんだよ」
缶詰とは、いわゆる部屋に引き籠ることだ。監獄と一緒で、執筆するまで外に出られないデスゲームが始まる。
「いま余裕あるでしょっ」
「あるはあるが、このままだと確実に缶詰コースだ」
「そうならない為にも、仕事部屋に引き籠る以外の方法があると思います!」
「それは是非教えてくれ」
この際小説が書ければ何でもいいので懇願するように催促すれば、何故か美月はほんのりと頬を朱に染めた。
なんだその反応は、と怪訝に思っていると、美月は口をもにょもにょと動かして、
「……れば……ですか」
「あ? 何て言った? ちゃんと言ってくれ」
顔を近づければ、美月はぶんぶん両腕を振り回しながら言った。
「だから! 私ともう一度すればいいじゃないですか!」
「は?」
顔を真っ赤にして叫ぶ美月に、晴は眉根を寄せる。
何をするんだと首を捻れば、美月は指をもじもじさせて、
「晴さんが執筆できないのは、その……つまり欲求が溜まってるからですよね?」
「たぶん」
「そこは自分で理解してもらわないと私も困るんですけど……でも、欲求が溜まってるので合ってると思います」
晴の欲求をなぜか美月が肯定して、晴も美月が言うなら間違いないと顎を引いた。
「欲求が溜まってしまって、私のことが頭から離れなくなって小説が書けないなら、方法は一つしかないですよね」
「他にもあると思う」
「ありません」
と強めの口調で反論を封じられて晴は口ごもる。
ここまで迂遠な言い回しをする美月だが、晴はもう美月が何を言いたいのか分かった。
つまるところ、小説を書きたいならもう一度美月を抱けばいい、ということだ。
それを理解した瞬間、晴は顔を顰める。
「お前は、嫌じゃないのか?」
「はい?」
晴の問いかけに、それまで顔を赤くしていた美月が怪訝になる。
「嫌、とは?」
「お前、男にあんまいい思い出ないんだろ」
「それはそうですが……」
「なら、こんな風にお前の体が目当てみたいな俺が嫌にならないのか?」
真剣に顔で問いかければ、美月は目を瞬かせる。
その数秒後。美月は「ぷふっ」と口を抑えながら吹いた。
「何が可笑しい?」
「いえ……晴さん。私の体が目当てだったのかなと」
「んな訳あるか」
そうじゃないと力強く否定すれば、美月は「分かってますよ」と目尻に堪った涙を拭いながら微笑んだ。
「貴方が体目当てなら、とっくに私を犯してないとおかしいでしょう?」
「犯すって言うな。抱くといえ。犯罪臭が凄いだろ」
背中に冷や汗が流れた。
そんな晴に構いもせず、美月はゆったりと晴の手を握りだす。
「他の人と、晴さんは違います。貴方は私を大切にしてくれた。温もりを伝えようと、愛してると必死に伝えようとしてくれた」
「――――」
慈愛を宿す紫紺の瞳が愛しさに触れるように細くなっていく。
「私だって、嫌だったら提案しません。こうして誘うのは、晴さんが好きだから。もっと、晴さんと繋がりが欲しいから」
まだ、美月とは出会って二カ月しか経っていない。
お互い知らない所ばかりで、秘密にしていることだってある。
だからこそ、晴は美月をもっと知りたいし、美月だって晴をもっと知りたいと願う。
「晴さんは、どうですか? 私と、したくありませんか?」
「ぶっちゃけるとしたい」
「ふふ。素直でよろしい」
頬を朱に染めて恥ずかしそうに、でも嬉しそうに美月は口許を緩めた。
「もう一回、お前の熱を知りたい。……いや、もっと教えて欲しい」
「えぇ。いいですよ」
美月の熱を、もう彼女の一度〝愛〟に触れたいと懇願した。
その懇願は、朗らかな声音で受け入れられる。
のし、とソファーが軋む音を立てたのは、美月が晴に抱きついてきたから、
「今週、晴さんにずっと避けられて寂しかったです」
「悪かった」
手を握り返せば、美月は甘い声音で問いかけてくる。
「その分の寂しさを、今から埋めてくれませんか?」
「あぁ。満足するまで、埋めてやる」
肯定の代わりに、晴は熱く深い口づけを美月に捧げた――。
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