第3章 【 夏だ! 水着だ! 浴衣だ! (7月~8月編) 】
第77話 『 まだ口にしてもらってませんよ 』
少しだけ慌ただしい朝も、最近は楽しく思えた。
妻が用意したご飯を食べて、食器は旦那である晴が洗う。日課になった工程に苦行を感じることはなく、光を反射する水滴は心地よさすら覚えさせる。
そろそろ自分もエプロンでも買うか、と思いつつリビングに向かえば、通学前の美月が佇んでいた。
「遅刻するぞ」
「大丈夫。まだ時間に余裕ありますから」
晴さんのおかげで、と口許を緩める美月に、晴は「そーかい」と生返事した。
「忘れ物ないか?」
「あるわけありません。傘も、ちゃんと持ってますからね」
「今日もずっと晴れだろ」
いつかの雨の日の出来事を揶揄するように口にした美月に晴は口を尖らせる。
それから美月は、さっと前髪を整えると晴の名前を呼んだ。
「いつものしてください」
「いつもしてないだろ」
「なら今日からしてください」
「最近、お前の要求が日毎に高くなってる気がするんだが……」
「気のせいです」
「いや気のせいじゃない」
しらを切ろうとする美月に、晴も主張を譲らない。
そうやってずるずると美月の要求に躊躇っていると、
「このままだと、私は遅刻してしまいます。いいんですか、遅刻の理由を先生に言っても」
「自爆するのお前だぞ」
「そうならない為にも早くキスしてください」
頑固な妻は、強気で一顧だにしなかった。
めんどうで、でも可愛いとさえ思える子どもみたいなワガママを魅せる美月に、晴は「はぁ」と重いため息を吐くと、
「一回だけだからな」
観念したように、美月の唇にキスを――
「むぅ。おでことは聞いてません」
「これで我慢してくれ」
唇ではなくおでこに唇を押しあてれば、美月は驚き半分、不服半分といった顔になる。
「なんであれキスはキスだ。ほれ、さっさと学校に行け」
「あ、ちょ……まだ口にしてもらってませんよ」
「いいから行け」
抗議する美月の背中を押して、彼女を玄関へと向かわせる。
「今日、バイトは?」
「あります」
「ならよか……いやなんでもない」
「?」
失言を招こうとした口を間一髪で修正した。
少しだけ様子のおかしい晴に、美月は怪訝に眉根を寄せる。
意外にも勘のいい妻には悟られぬように、晴はいつもの仏頂面で言った。
「今日も終わったら迎えに行く」
「は、はい……」
「ほれ、遅刻するぞ。行ってこい」
急かすように背中を叩けば、美月はぎこちなく頷いた。
「それじゃ、行ってきますね」
「あぁ」
振り返り、玄関に手を掛ける。そして外に出る前に、美月は柔和な笑みを浮かべた。
そんな慈愛に満たされた笑みに、晴は引き攣りそうになる頬を堪えながら手を振った。
カシャン、と扉が閉じられた瞬間、
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
と頭を抑えながら大きなため息を吐くのだった。
▼△▼△▼▼
「……ダメだ。全然集中できねぇ」
仕事部屋にて。執筆する晴のタイピングはいつもとは比べものにならないほど遅かった。
加えて、いつもなら頭の中で繰り広げられるキャラクターの会話も、あの日以来途中で途切れてしまっていた。
背もたれに体重を掛け、晴は天井を仰ぐ。
「スケジュール的には問題はない、がこのままいくとマズいな」
執筆したいのにできないジレンマに、ドッと重たい吐息が零れる。
今週。ずっと晴の集中力を鈍らせている、その原因とは――
「美月が頭から離れない」
美月と一つに結ばれた夜の日の事。それがずっと、晴と小説の繋がりを絶っていた。
蒸気した頬。艶めかしい吐息と嬌声。柔らかい唇。触れ合い続けた肌の感触。
小説家として培われた記憶力と創造力が、あの日の美月を鮮明に蘇らせる。それこそ、晴の意思に関係なく。
「思い出して悶々とするとか、中学生か」
自分がまさかこんな状態になるとは想像もしていなくて、晴は自分自身に呆れてしまう。
美月に触れる度に、顔を見る度に思い出してしまって、体の奥底から熱いものが込み上がってくる。
「プロとして情けねえし、発情期の猿みたいで嫌だな」
ごんごん、と煩悩を振り払うように頭をテーブルにぶつける。それでも、また勝手に頭はあの日の夜を想起させてしまう。
これが童貞を長引かせた故の弊害か、と痛感すれば、いつか慎が言っていた事を思い出した。
――『案外、お前みたいな奴は初めてヤッたら快感を忘れられずすぐまた盛ると思うぞ』
その通り過ぎて、晴はしばらく慎には頭が上がらないと頬を引きつらせた。
「アイツが嫌がることはしたくないな」
でも、晴としては自分の欲求を優先するよりも、その思惟の方が強く働いた。
美月は、異性との付き合いで良い思い出がない。そんな美月に執拗に迫りたくはなし、怖がらせたくもない。夫婦なんだし、何よりも執筆しか頭にない晴の手を握ってくれた美月を大切にしたいと思った。
でもそれは、慎みたいな奴からすると軟派な思考なのだろう。
「恋愛は難しい。……いやこれは恋愛じゃないか」
美月の考えている事が分かる道具が欲しかった。めっちゃドラ〇モン欲しい。
でもここは現実なので、猫型ロボットもいなければ四次元ポケットもない。相手の思考を読み取る道具くらいならありそうだが、精度は期待できないだろう。
「はぁぁぁ。執筆したいのにできねぇぇ」
もっと美月に触れたくて、でも大切にしたいジレンマに挟まれながら、晴は初めて執筆以外で悶々とするのだった。
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