第76話『 殺し文句が過ぎますよ、ばか 』


 こんなにも深く眠りにつけたのは、随分と久しぶりな気がした。


 小説の事を考えることもなく、悪夢にうなされる事もなく、ただ懇々と眠り続ける。


 その安寧は少しずつ、意識は暗闇から明るいほうへと誘われていって――


「……ん」


 ゆったりと瞼を開ければ、霞む視界に微笑みを向ける少女が映った。


「おはようございます、晴さん」


 愛する妻の声音に、晴はまだ重たい瞼を擦りながら相槌を打つ。


「……はよ。美月」


 おはよう、と上手く呂律が回らない晴に、美月はくすくすと笑う。


「よく眠れましたか?」

「あぁ。でもまだ眠い」


 また眠たげな晴を、子どもようだと睦まじく見つめる美月。そんな美月の胸に顔を寄せれば、


「あらあら、甘え坊さんですねぇ」

「お前の体温が欲しいだけだ」

「ふふ。私の体温でよければ、好きなだけ堪能させてあげますよ」


 美月の熱を求めれば、美月は微笑みながら晴の頭を撫でる。

 それから、美月は寝ぼけた晴に問いかけた。


「それでどうでしたか、童貞を卒業できた気分は」

「どうもこうもないな。こんなもんかーくらい」

「そこは童貞卒業できたぞー、って喜ぶべきでは?」

「あんま実感涌かないんだよ」


 そういうものですか、と美月は少しだけ残念そうに口許を緩めた。


「……でも、気持ちよかった」

「ふふ。喜んでもらえたなら良かった」


 夜の事を思い出しながら、晴は素直に感想を伝える。それに、美月は満更でもなさそうに口許を綻ばせた。


 体を襲うわずかな倦怠感。それは昨日の余韻を物語っているようだった。


 美月と一つになり、お世辞にも上手いとはいえないぎこちなかった行為。ただひたすらに気持ちよくなりたくて、美月ともっと繋がりたくて、美月を貪り続けた。


「お前は痛くなかったか?」

「ちょっとひりひりしますけど、でも、私もちゃんと、気持ち良かったですよ」

「なら良かった」


 それが晴を配慮しての言葉だと思ったが、少しでも美月がそう感じてくれたのなら留飲が下った。


 安堵して美月の顔をみれば、何故か彼女の顔には陰りが見えた。


「どうかしたか?」

「いえ……」

「何か不満があるなら言え」


 ジト目を向ければ、美月は躊躇う素振りをみせた。

 それから、美月は少し悲しそうに声を落として言った。


「昨日の行為の事に不満はないんです。ただ……」

「ただ?」

「……私の初めてを、晴さんにあげたかったな、と」


 どうやら美月は、晴に処女を捧げられなかったことを悔やんでいるようだった。


「晴さんは童貞をくれたのに」

「あげたくてあげた訳じゃないぞ」


 美月と結婚するなんて思いもしなかったし、こうして女性と体を重ねるとは去年までは思いもしなかった。

 

 口を尖らせる美月にそう言えば、しかし彼女は悔悟しているようで、


「でも、やっぱり初めては好きな人にあげたかったです」


 そう言った美月は、寂しそうに眉を下げた。


「気にすんな」


 そんな憂いをみせる顔に、晴はぐっと顔を近づけるとそのまま唇を重ねた。


 他の男が美月の処女を奪ったのなら、それ以上のものを晴が他の男から奪えばいい。


 こんなに可愛くて愛しいと思える少女は――妻は晴のものだ。


 だから。


 驚いて目を丸くする妻に、晴は平然と告げた。


「お前の初めてはもらえなかったが、お前の一生は俺がもらうつもりだ」

「――っ‼」

「だから気にしなくていい」


 そう言いながら美月を胸元へと抱き寄せれば、胸の中で甘い吐息がこぼれた。


「殺し文句が過ぎますよ、ばか」


 顔は見えないが、美月が照れていると分かる。

 ふふ、と嬉しそうにこぼれる笑みが肌に触れてくすぐったい。

 優しく、それこそ赤ん坊をあやすように美月の頭を撫でながら、晴は言った。


「少しずつ、お前の扱いも、こっちの方も上手くなってくから待っててくれ」

「そうなると私が余裕なくなってしまうので、ゆっくり上手になってほしいですね」

「じゃあすぐ上手くなるかな」

「むぅ。晴さんのイジワル」


 頬を膨らませる美月に、晴はふ、と苦笑をこぼした。


 カーテン越しに感じる、朝の気配。いつも一人で目覚めていた朝に、今は傍に愛する妻がいる。


 それがどれほどの幸福か、もう理解しているから。


「なぁ美月」

「はい。なんでしょうか」

「もう少しこのまま、抱きしめてていいか」


 美月はふふと笑う。


「いいですよ。今日はずっと、二人でゆっくりしましょう」

「……そうだな」


 抱きしめる晴に、美月は優しい声音とともに抱きしめ返してくれた。

 小説も書きたいけれど。

 それよりも今は、妻との至福の時間を堪能したかった――。

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