第134話 『 今夜はたくさん、愛情を注いでくれますか? 』


 美月の夏休みも一週間を切った。

 そんな夜の事だった。


「おい、くっ付かれると暑いんだが」

「――――」

「黙るな。何か言え」

「うむぅぅぅ」

「それ呻ってるだけだからな?」


 最近の美月は甘えたがりだが、今日はより一層それが強かった。


 リビングでくつろいでいると突然美月が跨ってきて、そのまま無言で抱きついてきたのだ。


 最初は困惑したが、今は若干呆れが勝っている。


「どうしたんだ。ご要望があれば受け付けるが」

「じゃあ寝るまでこのままでいさせてください」

「べつに構わんが……本当にどうした? お前らしくないというか、いつもは甘えたいのかそうじゃないのか微妙なくせに、今日はえらく素直だな」

「私だってそういう日くらいあるんです」


 そうですか、と吐息をこぼす。


「スマホ、イジってもいいか?」

「いいですよ」


 どうやら本当に晴にくっ付いていたいだけらしい。


 美月の行動には甚だ理解できないが、彼女がこれで満足ならこれでいいだろう、とスマホに視線を戻した。


 それから数分ほどぽちぽちとスマホを操作していると、


「もうすぐ夏休み終わっちゃいます」

「そうだな」

「寂しいです」

「夏休みって最高だもんな。一カ月半近く休みがあるって、社会人にとっては喉から手が出るほど欲しい休日量だし」


 学生のうちに満喫しとけ、と言えば、唸り声が聞こえた。


「むぅ。言葉の意味が伝わってませんね」


 ジト目を向けてくる美月に、晴はこてん、と小首を傾げた。


 いったいどういう意図があったのだろうか、と眉根を寄せれば、美月が頬を抓んできた。


「貴方と一緒にいられる時間が減るから寂しいんですよ」

「お前がそう思うなんてな」


 くにくにと頬を弄りながら言った美月に、晴は思わず失笑してしまった。

 そんな晴に、美月は「当たり前です」と頬を膨らませて。


「こんなにも長い時間一緒に過ごしてしまうと、学校が始まった時に困ってしまいます」

「何が?」


 と問えば、美月は重いため息を吐いて、


「貴方がお昼ご飯ちゃんと食べられてるか、とか。貴方がちゃんと休息を取っているか、とか。……貴方が私がいなくて寂しいんじゃないか、とか」

「前半の懸念は分かるが、後半は完全に杞憂だな」

「どういう意味ですかねえっ」

「いはいいはい。抓むのやめほ」


 美月の爪が頬肉に食い込んできた。

 冗談だ、と手を叩きながら窘めれば、晴はやれやれと吐息して、


「べつに今と大して変わらんだろ。そもそもお前は夏休みもバイトがあったんだから」

「それはそうですけど、でも、夏休みに比べたら格段に顔を合わせる回数が減るじゃないですか」

「一緒に居る時間が夏休み前に戻るだけだろ」


 そう言えば、美月は「淡泊男」と口を尖らせる。


「貴方はもう少し妻に優しくてもいいと思います」

「今こうして甘やかしてるだろ」

「今だけじゃなくずっとがいいです」

「すぐ顔赤くするくせにか?」


 うっ、と美月がうめく。

 それからぽかぽかと胸を叩いて来て。


「それは晴さんが唐突に甘い言葉を言って来るのが悪いんですっ」

「俺は思ったことをそのまま言ってるまでなんだが」

「それが私にとっては十分凶器なんですよ」

「ならもう少し減らすか?」

「えそれは嫌です」


 めんどくせぇ、と顔をしかめずにはいられなかった。


「たくっ。ワガママだな」

「女の子はこれくらいが丁度良いんですよ?」

「それに振り回される男としては堪ったもんじゃないけどな」

「ふふ。男は女に振り回される生き物なんです」


 美月が晴の唇に己の指を当てながら言った。

 そのいじらしい顔に、晴は不服気に目を細めて、


「なら、お前が寂しくないように、今からたっぷり甘やかしてやらないとな」


 不敵な笑みを浮かべれば、美月が頬を引きつらせた。


「きょ、今日はもうたくさん甘やかしてもらったので十分です」

「なに、遠慮するな。こういうサービスは妻に対する旦那としての当然の行為だ」

「その顔は妻を労う顔じゃありませんけど⁉」


 逃げようとする美月を逃がすまいと強く抱きしめれば、たちまち愛らしい顔が赤く染まる。


「は、晴さんがしたいだけですよね……」

「何を?」

「……あ、うぅ」


 挑発的に問い掛ければ、美月の視線が泳ぐ。

 羞恥心で真っ赤になった顔が、恥じらいながら小さな声音で答えた。


「……その……スを」

「聞こえないな」

「イジワル⁉」

「聞こえなかったのは事実だ」


 目尻に涙を溜めながら、美月はぽかぽかと晴の胸を叩いてくる。

 その両腕を掴めば、潤んだ紫紺の瞳が諦観を悟って。


「その、キスを」

「俺がお前とキスしたい――だけだと思うか」

「――ぁ」


 ゆったりと伸ばした手が、美月の頬を撫でる。

 涙で潤んだ紫紺の瞳。それを真っ直ぐに見つめながら、晴は言う。


「キス以上のことをお前としたい。いや、今日はするつもりなんだが」


 こうして無闇に抱きつかれると晴だって欲求が疼く。


 美月の夏休みも終われば、また美月の体調を気遣わないといけない日々がやって来る。


 だから今のうちに――否、そうでなくとも、美月に触れたかった。


 お前はどうしたい、と目で問いかければ、美月は視線を逸らしながら答えた。


「私だって、晴さんとしたい……です。キス以上のこと」

「じゃあ、気持ちは一緒って訳だ」


 恥じらいながら肯定する美月に、晴は口許を綻ばせる。

 寂しがり屋の妻には、夫としてたくさん愛情を注いでおかないといけない。


「晴さん。私が二学期からも頑張れるように、今夜はたくさん愛情を注いでくれますか?」

「いいぞ。お前が俺を求めるなら、俺の全部を使って愛情を証明してやる」


 淡泊だとか、顔が死んでるとか、普段は妻に散々呆れられているから、こういう時にこそ愛情を証明しないといけない。


 文字通り、晴の全部を使って――。


 ゆっくりと、お互いの顔が近づいていく。


 吐息が頬に当たって、段々と息が荒くなる。


 見つめ合って、一秒後。


「「――んんぅっ」」


 目を閉じた二人は、それから互いの〝熱〟を求め合うように深いキスを交わした――。


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