第6章 【 聖夜とお正月とパーティー(12月~1月編 】

第266話 『 たくさん考えて、千鶴を元気づけます 』


 文化祭が終わった。

 けれど、それはとても幸せの一言では片づけられない結末を迎えた。


「……何かあったのか」

「え?」


 ソファーに座りながらただ流れる映像を見つめていると、不意にそんな問いかけが耳朶に届く。


 ハッとして我に返れば、マグカップを二つ手に持っている晴が美月を怪訝な表情で見つめていた。


「ほれ、ホットミルク」

「ありがとうございます。……ホットミルクなんて作れたんですね」


 差し出されたマグカップを受け取りながら皮肉を言えば、晴はよっ、と隣に座りながら「バカにすんな」と口を尖らせた。


「これくらい俺でも作れる。牛乳レンチンしてハチミツ入れるだけだ」

「たしかに。二工程なら誰でもできますね」


 ふふ、と弱い笑みをみせれば、晴は笑わないままマグカップに口をつける。

 美月もやや遅れて飲めば、温かさとハチミツの優しい甘みが口内に広がった。


「それで、何かあったのか?」

「いえ……特になにも」


 ふるふると首を振れば、晴は「嘘吐け」と美月を睨んだ。


「帰ってきてから明らかに様子が違う」

「いつも通りです」

「俺がお前を見てないとでも思ってるのか。いつもと雰囲気が違うくらい、すぐに分かる」


 そうでなくとも晴は観察眼が鋭いから、美月の変化など容易に看破するだろう。


 隠しても無駄だと悟ると同時に、いつも自分の見ていてくれることに少し嬉しくなる。


 けれど、それはすぐにあの出来事に掻き消されてしまって。


「言いたくないなら言わなくていい」

「――っ」


 言葉を選んでいる最中。晴が淡泊にそう言った。


「別に無理して悩みを打ち明けてもらおうとは微塵も思ってない。俺はお前の夫だが、それでも言いたくないことの一つや二つあるだろ」

「べつに貴方に隠し事なんてしてませんよ」


 それならそれでいい、と晴は相変わらず淡泊に返す。


 それから、晴は無言で美月の肩に腕を回すと、そのまま引き寄せるように美月の頭を肩に乗せさせた。


「本当に優しいですね、貴方は」

「旦那なりの気遣いだ。素直に受け取っとけ」

「はい。受け取っておきます」


 美月の不安を拭うように、晴は優しく頭を撫でてきた。


 彼からの気遣いを享受していると、晴は大して興味もないだろう映像を見ながら呟いた。


「お前は笑顔が似合ってる。だから、暗い顔はできるだけするな」

「今の私、暗い顔してますか?」

「お前自身がどう思ってるのかは知らん。けど、俺からだと辛そうにみえる」

「…………」


 一瞥をくれれば、その視線から思わず目を逸らしてしまう。


 美月の大切な友人が、告白して振られたのだ。


 これまで恋慕を抱く相手に必死に振り向いてもらおうと努力して、勇気を振り絞って、今日の文化祭に想いを告げた。けれど、それの恋が成就することはなかった。


 恋が実らなかった彼女は、その後大粒の涙を流しながら泣き叫んだ。


 初めて、友達が泣いているところを見た。


 それからずっと、美月の胸の中で行き場のない奔流が渦巻いてる。


「恋が必ず実るものではないということは、分かってるんです」

「それが恋愛だからな」


 晴は素っ気なく返す。決して興味がないわけではなく、それをよく理解しているから美月の言葉にただ静かに耳を傾けているのだろう。


「私。初めて人が振られて、泣いているところを見ました」

「……そうか」

「恋って、とても辛いんですね」

「俺には分からない。恋愛なんて小説ではうんざりするほど書いているが、現実じゃまともにしてこなかったから」


 けれど、と晴は一拍置いて言った。


「書いてて、時々思うよ。この子は振られる為に生まれてきて、泣いて、苦しんで、それで終わるのかって。それが、作者としてはその子に謝りたくなるほど歯痒い気持ちになる」


 少しだけ、声音に悔悟が見えた。


 晴は、恋愛を主題に書く作家だ。実る恋も、実らない恋も多く書いてきた。当事者ではないが、けれど誰よりも〝失恋〟という感情に向き合ってきた。そうでなければ、物語を書くことなんてできないから。


「でもな、現実は違う。物語はそこで終わっても、現実なら何度だってチャンスがあるし、その先の人生がある。そこで、失恋以上の恋を掴めるかもしれない」


 それが創作物と現実の違いだと、晴は美月に優しい声音で教えてくれた。


「そう、ですね。たとえその人との恋がそこで終わっても、まだ次がある。それに、まだ本当に終わったわけでもないですもんね」

「そういうことだ。だから、お前が気にして思い込む必要なんてない。むしろ、その友達のためにできることを考えろ」

「できること……何があるでしょうか」

「あるだろ、たくさん。慰めることも。美味いメシを奢ってやるとかも」


 慰めようならいくらでもある、と晴は言った。


「友達の為に考えてあげろ。その子が大切なら尚更。お前にできることを」

「……はい。考えます。たくさん考えて、千鶴を元気づけます」

「その意気だ」


 徐々に活力を取り戻していけば、そんな美月に晴は微笑をこぼした。

 それから、美月はふふ、と口許を綻ばせると、


「流石は小説家ですね。説得力が違います」

「小説家だからというより、お前より八年長く生きた先達の知恵だな。人生は色んなことを経験しておくに限るぞ」

「なら、貴方は小説の為にもっと色々なことを経験しては?」

「小説には楽しい思い出より、苦しかった思い出のほうが意外と役に立つぞ」

「貴方が言うと説得力が凄まじいですね」


 晴の壮絶な過去を知っている身としては、うまく笑うことができなかった。

 頬を引きつっていると、晴は苦笑を浮かべながら言った。


「今はお前がいてくれて幸せだ」

「だからそういうことをサラッというのはずるいですっ」


 また不意打ちを食らってしまって、美月は顔を真っ赤にした。


 辛いこと。苦しいこと。それはこれからもたくさんあるだろうけど、晴が傍にいてくれるなら、きっと大丈夫な気がした。

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