特別編① 『 昨日も、あんなに激しいことをしてくれたのに 』



「……ん」


 深い眠りの中で覚えたのは、押し潰されているような感覚だった。

 それだけでなく、ふふと怪しい嗤い声が聞こえてきて、晴の意識は徐々に現実へと浮上していく。


「――は?」

「おはよう、ダーリン」


 重たい瞼をゆっくりと開けた晴を、布団の上から甘い声音が出迎えた。

 ダーリン、と人生で一度たちとも言われたことがない呼び方に、晴は眼前の女性を含めて困惑を隠せなかった。


「……どちら様ですか?」


 晴と布団の上で足をパタパタさせている女性に、晴は寝起きの頭を酷使させながら訪ねる。

 当然、相手に見覚えはない。ただ、どことなく白銀の髪と金色の瞳に見覚えのようなものはあって。

 そんな晴の疑念に、女性は妖艶な笑みを浮かべながら答えた。


「やだダーリン。愛しの女の顔忘れちゃったの?」

「うん。てかマジで誰?」

「ふふ。そういう素直なところも大好きよ」


 普通であればビンタなり刺されるなり一撃をもらいそうだったが、失礼な態度にも女性は不快感とは真逆の感情をみせた。


「ひょっとまだ寝ぼけてるのかなぁ」

「いや朝から脳をフル回転させたから意識はハッキリしてるよ」

「さっすがダーリン」


 楽し気に喉を鳴らす女性に、晴は完全に覚醒した意識で改めて状況確認する。

 昨日の記憶は、ある。慎とサトルと飲みに行ったはずだ。レモンサワーを二杯、ホワイトサワーを一杯、ブドウサワーを一杯飲んで、居酒屋を出た後は慎を送り届けた記憶もしっかりとある。

 それから――と話していたはずだ。


「あれ、なんか大事な記憶が抜けているような」

「何言ってるのダーリン」


 可笑しな人、と女性が嗤う。

 晴に対して慈愛の瞳を向けるこの女性だが、晴は彼女との記憶が全くない。

 もしかしてヤってしまったか、と否定できない可能性が脳裏に浮上すると、途端に冷や汗が流れ始める。


「ええと、今更だけど貴方の名前は?」

「もうダーリンてば、愛しの恋人の名前を忘れちゃうとか酷い」


 むっ、と頬を膨らませる女性に晴は「すいません」と頭を下げる。

 そんな失礼極まりない晴にも彼女は「でもダーリンだから許してあげる」と親密さを窺える許容をみせると、


「私の名前は〝エクレア〟よ」

「……エクレア」


 復唱する晴に、金色の瞳が覗いてくる。


「どぉ? 思い出してくれた?」

「なんとなく、聞き覚えがあるような……ないような?」


 曖昧な晴の言葉に、女性――エクレアは「なにそれ」とくすくすと笑った。


「ひどいなぁ、ダーリン。恋人の名前忘れちゃうなんて。これはしばらく禁酒ね」

「それは構わないんだけど……恋人って、俺とキミが?」

「それも忘れちゃったの?」


 ひどぉい、と言う割には、エクレアは底の見えない笑みを浮かべている。

 普通ならば傷つくはずでは、と思惟する晴に、エクレアは指を唇に押し付けると、


「昨日も、あんなに激しいことしてくれたのに」

「激しいことって……」


 不穏な言葉に血の気が引いて、晴はまさか、と失笑する。

 けれど、その指摘が晴に身体に対する違和感を気付かせて。


「――ッ⁉」


 ガバッ、と布団を捲れば――なんと晴は生まれたままの姿だった。

 え、え――え?


「全然記憶ないんだけど⁉」

「あらあら。ダーリンてばやっぱり悪い人。でもそこが大好きよ」


 顔面蒼白になる晴に、エクレアは愉快そうに喉を鳴らすのだった。


 ▼△▼△▼▼



 いつもならこの時間は執筆しているのだが、今日は彼女――エクレアに抱きつかれて身動きが取れなかった。


「あの、さっきお前が言ってた事を確認したいんだけど」

「なぁに?」

「俺たちってその、恋人、という関係なの?」


 ぎこちなく問えば、エクレアは頭をすりすりしながら肯定した。


「そうよ。私たちは恋人同士。昨日も愛し合った仲じゃない」

「はぁ」


 エクレアがそう答えるも、やはり晴はイマイチ実感が掴めなかった。

 起きた時に裸だったのは本当に血の気が引いたが、冷静になって考えてみればエクレアと〝した〟痕跡は部屋にはなかった。

 もしかしたら避妊具なしで行為に及んでしまった、という可能性もあるが、それは低い。だって晴は――と約束しているから。


「――?」


 ふと胸中に沸いた奇妙な喪失感が、ずっと晴に懐疑心を植え付けていた。

 胸の奥底に、ずっと誰かがいる気がする。そんな曖昧さに不快感を覚えるも、エクレアがそれを遮ってくる。


「ね、ダーリン。頭なでなでして欲しいな」

「……ん」


 胸にしこりは残り続けるものの、エクレアの要望には応えなければならない気がして晴は白銀の髪を撫でる。


「んにゃぁ」


 気持ちよさそうに鳴くエクレアに、思わず微笑が浮かんだ。


「やっぱりダーリンの手は気持ちいいわ」

「そうか」

「ダーリンも私を撫でられて嬉しいでしょ?」

「普通だな」

「んもう。ダーリンのイジワル」


 唇に指を押し付けてきて、エクレアは艶めかしい笑みをみせる。

 こんな風に――におねだりされたこともあったな、とまた曖昧な記憶が頭痛を引き起こしてくる。

 やはり、何かが晴の中で欠けている気がして。


「なぁ、この家って他に誰か住んでるか?」

「唐突にどうしたのよ?」

「いや、ずっと気になってな」


 晴の家ではあるが、やはり何かが――否、誰かが足りない気がする。

 そんな晴の疑問に、エクレアはふるふると首を横に振る。


「この家に住んでるのは私とダーリンだけよ」

「そうか」


 エクレアの答えを受けて、晴は淡泊に返した。

 やはりこの胸のざわつきは気のせい――なのに、収まる気配はない。


「今日のダーリンおかしいわよ。ずっと怖い顔してる」

「悪い」

「その顔も好きだからべつにいいけど」


 微笑んで、エクレアはまたおねだりをしてきた。


「ね、ダーリン。お腹もなでなでして」

「お腹?」

「よくやってくれるでしょ」


 そんな記憶はないが、エクレアが言うからそうなのだろう。

 僅かに抵抗はあるものの、晴はエクレアのご所望通りお腹を撫でる。


「こうか?」

「んっ……気持ちいいわよ、ダーリン」


 よそよそしくお腹に触れれば、エクレアが嬌声に似た声を上げる。頬もほのかに朱みを増して、背徳感のような後ろめたさのような感覚を覚えた。


「次は喉を撫でて?」

「なんか猫みたいだな」

「ふふ、こうかしらね。にゃ~」


 猫のように手を丸めて鳴くエクレア。


「すげぇ、ホントに猫みてぇ」

「凄いでしょ。ダーリンに喜んでもらう為に勉強したの」

「猫の物真似をか?」

「そうよ」


 妖艶な笑みを浮かべて、エクレアは「にゃ~」と鳴いた。

 その美貌で甘えられるのは、晴の理性が崩壊する程の破壊力だった。思わず心臓の鼓動がドクンッ、と高鳴って、エクレアを襲ってしまいそうになる。


「ねぇ、ダーリン。喉なーでて」

「はいはい」

「にゃぁぁ」

「ふっ。猫みたいだな」

「ご主人様に撫でられて喜ばない女はいないわ」

「ご主人?」


 エクレアの言葉に眉根を寄せるも、もしかしたらそういうプレイをしていたのでは、と頭が勝手に解釈して追及はしなかった。


「私、ずっとこうしてご主人様に触って欲しかったし、触れたかったの」

「何言ってんだ。ずっとこうしてきたんだろ?」

「……そうね」


 エクレアをまるで飼い猫のように撫で続ければ、彼女の金色の瞳が悲しげに揺れた。

 その儚い表情に、晴は言い知れぬ焦燥感を覚えて。


「ね、ダーリン。ダーリンは私のこと好き?」

「好きだぞ」

「世界で一番?」

「世界で一番……かな」


 なぜか、世界で一番は他にいる気がして、晴は曖昧に答えた。

 そんな晴の答えに、エクレアは諦観のような、悟ったような儚い笑みを浮かべて。


「……やっぱりあの女は嫌いね」

「? どうかしたか、エクレア」


 エクレアが小声で何か呟いた気がした。

 俯いた彼女の顔を覗き込もうとすれば、パッと上がった顔には見惚れる程の笑みが広がっていて。


「ね、ダーリン」

「なんだ?」

「そろそろ時間みたい」

「時間?」

「少しの時間だったけど、ダーリンと甘い時間を堪能できてよかったわ」


 エクレアが何を言っているのか分からず、晴は眉間に皺を寄せる。

 その言葉の真意を求めようと口を開いた瞬間――不意に頬に柔らかい感触が伝って。


「今度会った時は、絶対に口にしてあげるからね」


 約束のような、誰かに向けた宣誓のような言葉を最後に、晴の意識は再び暗闇に消えた。


 ▼△▼△▼▼



 布団の上から何かの体重を感じれば、晴は重い瞼を開けた。


「……エクレア」

『にゃ』


 掠れた声で猫の名前を呼べば、彼女はおはよう、と言った気がした。


「あ、また勝手に晴さんの部屋に入って、ダメでしょエクレア」

『にゃにゃあ』


 晴が目を覚ましたとほぼ同時、晴の妻である美月がノックをして部屋に入って来た。

 彼女はエクレアの存在に気付くと呆れた風に嘆息して、肩をすくめる。


「おはようございます、晴さん」

「おはよう」


 遅れて挨拶を交わせば、晴は上半身を起こす。裸だった気がするも、ちゃんと服は着ていた。

 何故かその事実に胸に安堵が広がる感覚を不思議に思いながらも、晴はよっ、とエクレアを抱きかかえる。


「あら、妻よりエクレアを優先ですか?」

「拗ねるなよ。なんでかエクレアを甘えさせないといけない気がしてな」

「なんですかそれ?」


 呆れた風に言う美月に、晴はエクレアの頭を撫でながら苦笑を浮かべる。

 どうしてそう思ったのかは分からない。けれど、晴の手を気持ちよさそうに受け止めるエクレアを見れば、そんな事はどうでもいいと思えてしまって。


「気持ちいいか、エクレア?」

『にゃぁぁ』


 そう問えば、エクレアは満足げに鳴いたのだった――。


――――――――――

【あとがき】

今話は読者の方からいただいたリクエストから書かせていただきました。他の読者様も「こんな話がみたい」という意見があれば見当する予定です。まぁ、作者のやる気次第ですけね(笑)

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