第242話 『 彼の幸せを願いたいんす 』
「ハル先生」
「なんですか?」
あれからそば屋を出て、二人はぶらぶらと街中を歩いていた。
ミケに名前を呼ばれて視線だけくれれば、彼女は真っ直ぐ前を見つめたまま言った。
「今日は私の愚痴を聞いてくれてありがとうっす」
「いえ。後半は愚痴を聞くというより、なんかお説教みたいになってしまったので」
にゃはは、とミケは笑った。
「そうっすね。でも、おかげでもやもやがちょっとだけ晴れた気がします」
「ならよかった」
微笑を浮かべれば、ミケは空を仰ぎながら続けた。
「私はやっぱり、自分よりも冬真くんのことを大切にしたいと思うっす」
「それがミケさんの答えなら、俺は何も言うことはないですよ」
「ハル先生の美月ちゃんへの気持ちはすごく素敵だなと思いました。美月ちゃんのことを尊重して、彼女のために尽くそうとしている。だからこそ、美月ちゃんは幸せを感じられてると思うんす」
「そうだといいですけどね」
謙遜しなくていいっすよ、とミケは笑いながら言った。
それから、
「私には、ハル先生と同じようなことはできないっす。きっと、相手に愛情を注ぐことよりも、絵を描くことを優先してしまう気がするんすよ」
「それはやってみないと分からないじゃないですか」
「そうっすね。でも、お試しで相手の時間を奪いたくないんす。それが貴重な時間なら尚更」
冷たい風が頬に当たる。
「私は、これまで絵しか興味がなかった女っす。絵以外のことはほったらかしにして。どうでもよくて。見て見ぬ振りをしながら今日まで生きてきた」
それは晴も同じだ。
けれど、晴が小説に尽くした時間よりも、ミケが絵に尽くした時間の方が遥かに多いのは既に知っている。
情熱は同じでも、努力までは比例しない。
「きっと、これからもこの生き方は変えられないっす。絵を描くって不思議で、どれだけ長い時間描いてても、たった数日描かなかっただけで感覚を忘れちゃうんすよ」
苦笑しながら語るミケに、晴はその気持ちだけは理解出来なくて複雑な表情を浮かべた。
「相手が尽くし系男子ならまだしも、こんな絵ばっか描いてて私生活もダメな女なんて、きっとすぐに愛想尽かされちゃいます」
「それは人に寄りけりじゃないですかね」
美月みたく、執筆ばかの晴に愛想を尽かさないでくれる人がいる。そんな人間、そうそう出会うことはないだろうけど。
たしかにミケの考えならば、彼は初めは尽くしてくれてもその後は分からない。
ミケは、きっとそれを恐れているのだろう。
だから、一歩を踏み込むことができない。
「私は私なりに、人生を楽しんでるつもりっす。大好きな絵を描けて、こんな風に悩みを聞いて欲しいって言ったらすぐに駆けつけてくれる人もいる。まぁ、その相手は既婚者っすけど」
にゃはは、と苦笑しながら軽口を言うミケ。
それから、真っ白な息を吐いて、
「私は自分の幸せよりも、彼の幸せを願いたいんす。こんなダメ女の世話じゃなくて、可愛くて素敵な人と一緒に笑い合っていて欲しい」
それは大人としての懇願ではなく、ミケ自身の願いなのだろう。
微笑を浮かべるミケは、真っ直ぐに晴を見つめてきて。
「やっぱり、私には恋愛は向いてないっすね。たぶん、一生恋なんてできる気がしないっす」
にゃはは。と笑うミケ。
彼女は笑うのに、晴は笑うことができなくて。
「どうしたんすか? ハル先生」
「……いえ、なんでもないです」
ミケの考えて決めた答えなら、これ以上口出しすることはない。
晴は、ミケたちの舞台には上がれない。その資格を手にしていないから。
たかがエキストラが舞台を踏み荒らすなどあってはないことだ。
見守ること。それが、晴ができる唯一のこと。
「(美月が歯がゆさを覚えていた理由が、やっと理解できた気がするな)」
そんな無力な自分を、こんなにも不甲斐なく感じたのは初めてだった。
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