第66話 『 もっと長いキスをください 』


 ミケと美月が邂逅した夜のこと。


「暑い」

「我慢してください」


 執筆しようにもできないのは、美月がずっと抱きついているからだった。


 いつものように罰なのかと思ったが、美月はいきなりくっついて離れようとはしなかった。それに、口数もいつもより少ない気がする。


 怒っている、というより、拗ねているように思えた。


「悪かったよ。気を付ける」

「晴さんとミケさんが仲良いのは分かりました。でも、やっぱりもやもやします」


 頭をぐりぐり押し付けてくる美月。

 そんな頭を撫でながら、晴は嘆息する。


「ここまでイジけるの珍しいなお前」

「当然ですよ。だって晴さんに女の人の友達がいて、それを見せつけられたんですから」

「何度も言うがミケさんとは恋愛感情はないからな。ミケさんも言ってただろ」

「確かに言ってましたけど……」


 美月が口を尖らせた。


『ハル先生はカレシというよりお兄ちゃんに近いっすかね。私一人っ子だったので、ついついハル先生に甘えちゃうんですよね~。すいません美月ちゃん。以後気を付けるっす!』


 とミケが美月に晴に寄せる感情を吐露していたのを思い出す。


「俺もどちからというと、ミケさんは妹に近い」

「なら口許についたシロップも取るんですか?」


 言及されて晴は「うぐ」とたじろぐ。


「あれは咄嗟で……」


 お前だって俺にしたろ、と反論すれば、美月はジト目を向けて論破してきた。


「私は貴方の妻ですから」

「それを言われたら反論できねぇ」

「すごく嫌な気持ちになりました」

「悪かったよ」


 また、美月は頭をぐりぐり擦りつけてくる。

 ほとほと困り果ててしまえば、晴は肩を落とすと、


「どうやったら機嫌直してくれる?」

「…………」

「なんでもいいぞ。高級スイーツを買ってこいでも、今度デートするでも、肩もみでも何でも」

「何でもいいんですか?」


 顔を上げた美月が紫紺の瞳を揺らめかせて問いかけてくる。

 晴はこくりと頷いて肯定すると、美月は「じゃあ」と唇に指を当てて、


「キスしてください」

「分かった」

「んっ」


 躊躇いも赤面もなく承諾すれば、美月のお望み通り唇を重ねた。

 数秒にも満たないキスが終わり、顔を離すと美月がなぜか頬を膨らませていた。


「そこは躊躇するべきでは?」

「お前がしろって言ったんだろ。お望み通りキスしてやっただけだ」

「童貞のくせに」

「キスくらい誰だってできる」

「もう少し時間をかけてくれてもいいと思います」


 美月はまだ納得していなかった。


「もう一回」

「まだやれと」

「早く」


 催促されて嘆息すれば、妻の命令通りもう一度唇を重ねる。

 また、数秒にも満たず唇を離せば、


「まだ足りません」

「そろそろ機嫌直せ」

「無理です。あの光景を忘れられるくらい、もっと長いキスをください」

「あんまキスしたことないんだけど俺」

「私としかしたことありませんもんね」

「そんな俺に長いキスを要求してくるな」


 悪戯に笑う美月がわずかに機嫌をよくする。どうやら、晴を揶揄えていると分かって楽しいようだ。


「キスじゃなくてなでなでじゃダメか」

「ダメ。キスがいいです」

「初めてだから下手でも文句いうなよ」

「言いません。だから早くキスしてください」


 そう言って、美月は目を閉じて催促してくる。そこに晴の拒否権はない。

 がしがしと後頭部を掻くと、晴も目を閉じた。


「(自制はしないとな)」


 美月を傷付けないようにと、必死に自分を言い聞かせながら、晴を待つ美月の唇を奪った。


「――んぅ」

「ん」


 一秒。二秒――時計の音が聞こえるくらいには長く交わすキスは、今までよりもずっと美月の唇の柔らかさを教えてくれた。


 ぷにぷにと、マシュマロみたいな感触。甘い香りと美月の息が頬に触れる。


 十秒。ようやく唇を離せば、美月はわずかに息が上がっていて、頬が蒸気していた。


「満足したか?」

「も、もう一回」

「さっさと機嫌直せ」

「あたっ」


 さすがに何度もワガママに付き合い切れず、晴は美月の額にデコピンをいれた。


「機嫌、直ったか?」


 問いかければ、美月は「はい」と頷きつつもやはり物足りなさそうな顔をしていた。


「どんだけ信用ないんだ俺は」

「そういう訳じゃありません。晴さんのことは信用してます」

「じゃあなんで拗ねてる?」


 ぐい、と顔を近づけて追及すれば、美月は視線を逸らしてしまう。


「……ミケさんが、少しだけ羨ましかったんです」

「羨ましい?」


 弱々しい声音に眉根を寄せれば、美月はこく、と頷いて言った。


「ミケさんほどの信頼関係を、私はまだ貴方と築けていないと、そう思ったんです」

「なるほど。つまりお前は不安だったんだな」


 美月の心情を言葉にすれば、美月は無言のまま肯定した。


 美月の思惟するように、ミケとの関係性は美月よりも強いのかもしれない。


 コンビとしての時間。友達としての時間。友情と呼べるものを共有していた時間。その全ては、たしかに美月よりも多くて強かった。

 でも、


「何度も言ってる。俺とミケさんはそういう関係じゃないし、向こうも共倒れはごめんだって俺と付き合うきは毛頭ない。それに……」

「――っ」


 すっかり自信を無くして妻。そんな妻の顎をくいと持ち上げると、晴は紫紺の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「俺が好きなのはお前だ。浮気する気も、お前に呆れる予定もない」


 キスの代わりに、晴は美月の胸襟を開けるような言葉を贈った。


「俺は、お前が思っている以上にお前を気に入ってる」

「ミケさんよりもですか?」

「……それはどう答えていいか悩むな」

「そこは私って言ってくれないと泣きます」


 泣かれては困る。


「分かった。お前の方が僅差で勝ってる。だから泣くな」

「僅差というのがすごく不服ですけど、今日だけは許してあげます」


 まだ晴の答えに不満そうではありながらも、美月は渋々納得してくれた。

 ぷくぅ、と頬を膨らませている妻へ、晴はまだ想いの吐露を続けた。


「お前はミケさんに異常に対抗心を燃やしてるが、俺がキスしたのはお前が初めてだし、こうやって好きだと思う感情はそれこそお前しかいない」


 ミケには、好意こそあれど恋情はなかった。

 晴が恋情を抱いたのは、美月が初めてだ。

 大切にしたいとも、そう思えたのも美月だけ。


「(あぁ。俺は思っている以上に、美月のことが好きなのか)」


 きっとこの気持ちを伝えないと、美月は満足してはくれないだろうから。


 美月、と名前を呼んで、愛らしい顔を向けさせる。


 小さく揺れる紫紺の瞳。その綺麗な双眸を真っ直ぐに見つめながら、晴は微笑みを浮かべた。


「俺は、お前のことが想像以上に好きらしい」

「……っ」


 小さく息を飲んで、紫紺の瞳が大きく揺れた。

 美月の不安を取り除ける方法は、彼女が要求する懇願の全部に応えるしかない。

 でも、晴なりに美月の不安を取ってあげたいと思ったから。

 だから、好きだと伝えた。


「これでも足りないなら、しょうがないからキスしてやる」

「……した」

「ん?」


 ぽつりと、何かを呟いた美月。うまく聞き取れずに耳を寄せれば、


「満足しました」


 嬉しそうな声音が耳朶に届いた。


「そうか。ならそろそろ離れてくれ……」

「それとこれとはまた別です」

「ぐえぇぇ」


 微笑を浮かべながら美月を剥がそうとすれば、満足したはずの美月はどうしてか離れてはくれなかった。


「不安はなくなりましたし、満足もしました……でもまだくっついてたいです」


 どうやら、ただの甘えたがりタイムに突入したらしい。

 ぎゅうう、と抱きつく美月を説得しようと、晴は肩を叩く。


「明日も学校あるし、風呂にだってまだ入ってないだろ」

「いいです」

「不潔」

「貴方に言われたくありません」

「俺は清潔を保ってるだろうが」

「気を抜けばだらしなくなるでしょ」


 その通り過ぎて反論できなかった。


「勉強よりも、お風呂よりも、今は貴方とこうしていたいです」

「はぁ。それで明日遅刻しても知らんぞ」

「夜更かしはしないのでご安心を」

「もう面倒だ。好きなだけくっついてろ。ただし、俺はスマホ見る」

「いいですよ。じゃあ、私は満足するまで晴さんにくっついてますね」


 機嫌が直ったのかそうじゃないのか分からない美月は、また頭をぐりぐりと擦りつけてきた。


 邪魔だな、と思いながらスマホを操作して、ふと視線を落とせば美月はご満悦そう微笑みを浮かべていた。


「(はぁ。俺も風呂入れねぇけど、まあいいか)」


 妻が自分から放れてくれるまで、晴はじっとしているのだった――。

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