第65話 『 私だってまだしてもらってないのにっ 』



「んっま~~~~⁉ 何度も食べたくなる味っす!」

「ミケさんが喜んでくれるなら良かった」

「なんで作ってもないお前がご満悦なんだよ」


 資料用の写真を何枚も取り終えた後。ミケはパンケーキをほっぺを落としながら食べていた。

 ミケを馬鹿にした代償にできた慎の引っ搔き傷には触れずに、晴はパンケーキを頬張るミケを微笑ましく見守り続ける。


「晴って、なんでミケさんには優しいの?」

「さっき言ったろ」

「それとは違う理由がある気がするから聞いてるんだよ」

「……理由なんてない」


 きょとん、とした顔のミケを蚊帳の外に、晴は慎に詮索するなと視線を送る。


「まぁ、いいや」

「分かればいい」


 深入りを避けた慎の懸命な判断に、晴も鋭い視線を逸らす。


「(コイツには言わないほうがいい)」


 晴がミケに優しい対応をする理由は勿論ある。たがしかし、それは慎であっても明かすことはできない。

 一度、自分自身に追い込まれたミケを見ているから、晴はミケにこうした態度を取る。

 壊れる、なんて表現は大袈裟だろうが、それに近い状態になったミケを晴は見ている。

 それが今のミケの立場を作り上げているから、晴はあの時止めなくて正解だと思った。

 ミケも晴が止めなかったことを感謝していたし、もし止めてたらコンビ解消とも言われた。

 ただやはり、責任――というか罪悪感は胸に残り続けている。


「あ、ミケさん。口許にシロップが付いてますよ」

「どこすっか?」

「ここです」


 拭えぬ罪悪感は、目に付いたシロップに霧散された。

 まだ咀嚼中のミケはフォークを置こうとしたが、それよりも早く晴が行動に出る。美月がいつかの晴にもやったように、晴もミケの口許についたシロップを指で絡めとった。


「お前、嫁がいるのによくそんなことを他の女性にもできるな」

「ミケさんは別だ。お前のカノジョにはやらない」

「それで恋愛経験ゼロとか本当か?」

「童貞だ」


 フキンでシロップを取りながら淡々と返す晴に慎は「まだ童貞か」と呆れていた。


「サンキューっす。ハル先生」

「いえいえ。ミケさんは気にせずに食べててください」

「あざっす」

「この絵面だけ見たら美月ちゃん卒倒するだろうなぁ」


 もぐもぐと頬をリスのように膨らませるミケに微笑むと、慎が訳の分からない事を呟いていた。

 なんで美月が卒倒すんだ、と思って眉根を寄せた時だった。


「…………なっ」


 ボトン、と何かが床に立てる音が聞こえた。

 トレーのような甲高い音ではなく、もっと鈍い音。それこそ、鞄のようなものだ。

 その音のほうへ自然と顔が向かえば、先に振り向いていた慎が冷や汗を流していた。

 さらにその奥には、戦慄に感情が追い付かない顔を浮かばせている――美月がいた。


「あれ、お前今日バイトだったっけ?」

「お前この状況でよく平然としていられるな⁉」


 硬直している美月に問いかければ、何故か慎が顔面蒼白だった。


「どういう意味だ?」

「いや今の見られたんだぞ⁉」

「今の?」

「なんで分からない⁉ お前がミケさんの口許についたシロップ手で取ってたところだよ!」

「それがどうかしたか?」

「「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ⁉」」


 絶叫が重なった。

 狼狽する慎の後ろから、鬼のような形相を浮かべた美月が激しく靴音を鳴らしながら近づいて来る。


「は、晴さん!」

「ん?」

「この方は誰ですか⁉」

「ミケさん」


 平然と答えれば、ちょうど次の一口を頬張っていたミケが喋れない代わりに敬礼した。


「はむはむ! はむはむはむはむっす!」

「あ、あの。せめて飲み込んでから言ってください」

「はむはむっす!」

「了解っす! だと」

「なんで分かるんですか⁉」


 それくらい分かるだろ、というツッコミは胸中にしまっておく。

 特に焦るわけでもないミケはしっかりとパンケーキを咀嚼して飲み込むと、改めて美月に自己紹介した。


「初めまして。【黒猫のミケ】といいます! ハル先生の小説のイラストを担当してるっす」

「あ、貴方がミケさんですか」

「紹介が遅れて申し訳ないっす。ええと、この子はもしかして……」

「はい。俺の妻です」


 と答えれば、ミケが興奮した。


「生JKだ!」

「そ、そうですけど……」


 晴への怒りはどこへやら。興奮するミケに美月はペースを欠かされて困惑していた。

 美月の肯定に、ミケは一層興奮していく。


「ハル先生、リアル女子高生と結婚したんすか⁉」

「えぇ」

「決断力ぱねぇっす! 流石っす!」

「褒めるべき点は一つもないと思いますよ」


 驚嘆とされるが、それに値するものは何一つとしてない。相手未成年だし。

 それから、ミケは席から立つと、美月を触ったりジロジロと観察した。


「めちゃ可愛い! 足ほそっ! ウェストモデルみたい! あとパイでけぇ!」

「ちょっと急に揉まないでもらえますか⁉」


 コイツよくセクハラされるな。

 晴の胸中のツッコミはさておき、ミケは二次元みたい、と美月を高く評価する。そして、油断していた隙に胸を揉まれた美月は顔を真っ赤にしていた。


「いいなー。ハル先生。こんな美少女と結婚したんすか」

「はい。分不相応だとは思いますが」

「いやいや! ハル先生に相応しい人っすよ!」

「美少女……相応しい」


 列挙された賞賛に気分が良くなったのか、美月は普段通りに戻っていく。

 が、晴にだけでは鋭い視線を送ってきた。


「ええと、初めまして、ミケさん。私はそこにいる黒髪短髪男の妻の八雲美月と言います」


 まだ怒ってますから、と美月は迂遠な言い回しで伝えてくる。

 それに慎がくつくつと腹を抱えながら笑っていて、晴はやれやれと肩を落とした。

 晴にだけご立腹の美月の隣に立つと、


「紹介が遅れてすいません、ミケさん。彼女が俺の妻の八雲美月です」

「滅多に会わないから仕方がないっすよ。でも、こんなに可愛いお嫁さんならもっと早く紹介してほしっかたなー」

「もう、ミケさん。褒め過ぎですよ」

「その通りです」

「貴方は少し黙っててください」


 淑やかな美月は晴の脇腹に肘を入れてきた。けっこうな威力だったので、たまらずその場にうずくまる。


「おまっ……加減しろ」

「ふん。女心知らないおバカにはこれくらいが丁度いいです」

「どうやら夫婦仲は良いみたいっすね」

「これを見てどうやったらそう解釈できるんですか……」

「喧嘩するほど仲が良い、って言うじゃないっすか。イマドキ喧嘩も難しいっすよ?」


 一理ある、と胸中で思っていると、慎がからからと笑いながら言った。


「はは。ミケさんは喧嘩する相手いなさそうですもんね」

「黙れチンカス。お前のアナルに大根突っ込むぞ。ドブてぇやつを。開発してやろうか」

「なんで尻ばっか攻撃しようとしてくるんですか⁉」

「じゃあ鼻の穴にきゅうり二本突っ込むっす」

「せめて一本だけにしてくださいよ⁉ というか人体の穴に何かねじ込もうとするのもやめて⁉」

「ぎゃーぎゃー五月蠅いナルシストっすね。なら穴作ってあげますよ。そこにねじ込む」

「余計やめろ⁉」


 こっちでバチバチと火花が散れば、


「晴さん。家に帰ったらお話があります」

「なんでだよ。俺なにもおかしなことしてないだろ」

「してました。ちゃんと見ましたからね。私という妻がいながらあんなことを……私だってまだしてもらってないのにっ」

「ミケさんのことは前にも言ったろ。お互い恋愛感情はない」

「それでもダメです! 晴さんは私の旦那ということをもっとちゃんと自覚してください」

「束縛激しいぞお前」

「束縛じゃありませーん。旦那として配慮すべき当然の行動ですぅ」


 こっちでも火花が散る。

 そんな騒がしい光景を、従業員たちは苦笑しながら、マスターは「青春だねぇ」と微笑ましそうに見守っていた。

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