第63話 『 それ浮気する人が言う台詞です 』
夕方。
「ただいまー」
と玄関の方から帰宅の合図が聞こえて、晴はリビングでの原稿作業を中断する。
数十秒後に美月が廊下からリビングに出てくれば、
「ただいま帰りました」
「おう」
淡泊に返事する晴に、美月がとことこと近づいて来る。
「今日はリビングで執筆してたんですね」
「まぁな」
ミケの家から帰って来たのが一時間ほど前なので、仕事部屋よりもリビングで執筆することを選んだ。といっても、執筆はせずに改稿をしていたのだが。
いずれにせよ原稿を進めていたことに変わりはないので、訂正はしなかった。
「少し休憩したらまた原稿進めるから、夕飯の時間になったらノックしてくれ」
「相変わらず仕事熱心ですね」
ほんのりと微笑む美月だが、わずかに呆れが見えた。
少しくらい休めばいいのに、と言いたげな美月の横を、飲み物を取りに行く為に通り過ぎようとした――その時だった。
「……晴さんストップ」
「あ?」
突然美月に足を止められ、晴は怪訝に顔をしかめる。
何事かと振り返ろうとすれば、それよりも早く晴の胸元に移動した美月が服の匂いを嗅ぎ始めた。
「何やってんだ」
「すんすん」
「おーい、聞こえてるかー?」
「すんすんすんすん⁉」
必死に晴の服の匂いを嗅ぐ美月に、声は届いていない。
美月の不可解な行動に眉根を寄せれば、ガバッ、と顔を上げた美月は晴を睨んだ。
「女の人の匂いがします!」
「…………」
「あ、いま露骨に視線逸らしましたね? 確信犯ということでいいですね?」
つい視線が逸れてしまえば、美月が捲し立てるように追及してきた。
「浮気じゃない」
「それ浮気する人が言う台詞です」
「してなくても疑われたらとりあえず弁明するだろ」
「女の人に会ったことは否定しないんですね」
「…………」
そこは否定できない。
また視線を逸らせば、美月はもう一度服の匂いを嗅いだ。
「文佳さんの匂いでも詩織さんの匂いでもない……誰ですか⁉」
「お前の嗅覚は警察犬か」
「晴さんと面識のあった女性の匂いは覚えることにしてます」
「変なところに才能を発揮させるな」
「浮気防止ですからっ」
胸倉を掴んで「誰ですか」と美月が鬼気迫る表情で晴を見つめる。
べつに隠す道理もないか、と嘆息すれば、晴はすんなりと白状した。
「ミケさんに会ってきた」
「ミケさん?」
はて、と小首を傾げる美月に、晴はポケットからスマホを取り出すと、今日ミケから送られたメールを美月に見せた。
【へ、へるぷ~】
「なんですかこれ」
「ミケさんからの救援要請」
件のメールとその下に綴られたやり取りを美月は目で追っていく。
「お肉か魚……お肉がいいっす……了解です……本当になんですかこれ?」
「お腹が空いてたミケさんから弁当買ってこいって催促された」
「貴方はミケさんの舎弟ですか?」
「友達だ。女性の友達」
友達、といえば、美月は懐疑的な目はまだ解いてないものの、ひとまず服から手を放してくれた。
「……家、行ったんですか」
口を尖らせて追及する美月に、晴は動揺せずに平然と答えていく。
「あぁ。ミケさん、仕事疲れて家から一歩も動けなかったからな。ミイラだった」
「ミイラて……まぁ、ご飯買ってきて欲しいってお願いするくらいピンチだというのはこのメールの文面で分かりました」
「今日は一段と目の下の隈が凄かった」
「その情報は要りません。というか、当たり前のようにミケさん、ミケさんって言ってますけど、私その人知りませんからね」
「知ってるぞ」
「は?」
素っ頓狂な声を上げた美月を尻目に、晴はリビングに置かれた本棚から【微熱に浮かされるキミと】を一冊取り出した。
それを美月に差し出すと、
「ほれ」
ここ、とイラストレーターの箇所に指を当てると、美月が音読した。
「……黒猫のミケ」
「ミケさん」
もう分かるだろ、といえば、美月は「あぁ」と納得したように吐息した。
「なるほど。晴さんの担当イラストレーターさんですか」
「そうだ。家がわりと近くて、たまに救援要請出されるんだよ」
「その情報私一度も聞いてませんよ~」
何の琴線に触れたのか、額の血管が浮き上がりそうな美月がまた胸倉を掴んできた。
「ぐえっ……聞いてこなかったのはお前だ」
「聞かなくても、女性の友達がいるなら教えて欲しかったです」
「なんでそんなこと教えないといけないんだ」
「なんでって……」
冷淡に言えば、途端、美月の声音が尻すぼむ。
ゆらりと服から手が放れて、顔を俯かせる美月。
「だって私、貴方の妻ですもん」
まるでいじけた子どもみたいに、美月は口を尖らせて言った。
そしてすぐ、美月はハッと我に返ると、
「ご、ごめんなさい」
「謝るな。謝るならその理由を言え」
「いえ……その、今のは子どもぽかったと思いまして。そうですよね。晴さんのプライベートの事ですし、私がどうこう言う筋合いはありませんよね」
「勝手に決めつけて落ち込むな。お前は実際子どもなんだし、今のは面倒だとは感じたが怒ってない」
そうやって悲しい顔をされると調子が狂う。
そんな美月の顔を見て、晴は『奥さんに申し訳ないっす』と言っていたミケの言葉を思い出した。なるほど、あれは晴にではなく、美月のことを慮った故の発言だったのだか。
がしがし、と面倒くさそうに後頭部を掻けば、晴はスマホを美月の手に無理矢理に渡した。
「【4235】」
「……え?」
「いいから番号打て。【4235】」
は、はい、と美月が狼狽しながら晴のスマホを操作する。
そして【4235】と打てば、スマホのロックが外れてホーム画面が開いた。
「これは……」
「俺のスマホの暗証番号だ。変に疑われるのも面倒だから、お前に教えておく」
「どうしてですか?」
「言ったろ。変に疑われるのが嫌だからだ。それでいつでも俺のスマホ確認できるだろ」
まだ無理解を示す美月に、晴は腰に手を置くと、
「俺は浮気なんかしないが、お前が嫌な気持ちになるならいくらでも調べればいい。個人情報を抜き取るのは勘弁してほしいが、プライベートを見るのは自由にしろ」
「そ、そんなことしなくていいです」
「俺が許可したんだからしていい」
ゆるゆると首を振る美月。しかし、晴も主張を譲らない。
「ミケさんとは仕事仲間で女性の友達だ。何回か一緒に遊びに言ったことがあるし、たぶん慎よりも仲はいいかもしれない。でも、恋愛感情はないしミケさんも二次元なら寝取られものはアリだそうだが現実では絶対に認めてない」
「二次元がありなら現実でもあり、ということにはなりませんか?」
「ならない。ミケさんは素直な人だ。嘘は吐かないし、俺もミケさんも慎も炎上案件は全部避けてる。やりたいこと続けたいからな」
浮気なんかすればたちまち炎上で、業界から即追放される。そんなの、晴たちは御免だ。
だからこそ、晴は浮気なんかしないし、ミケも晴には好意こそ示すが行動には移さない。
なによりも、
「ミケさんは俺とお前が結婚したことを祝福してくれた。そんな人を疑うなら、俺はお前でも怒るぞ」
「――っ!」
ぐいっ、と顔を近づけて美月を睨む。
たじろいで、視線を泳がせて、顔を俯かせて。そんな長い逡巡のあと、美月は胸の前できゅっと拳を握った。
「疑ってごめんなさい」
「ん。分かればいい」
か細い声音で謝った美月に、晴は穏やかな笑みを浮かべると頭に手を置いた。
優しく撫でれば、美月は晴の胸に顔を押し付けてきた。
「鼻息が擽ったい」
「ごめんなさい。でも、もう少しこのままでいさせてください」
「はぁ。少しだけだからな」
胸の中で、美月がこくりと頷く。
「俺も悪かったな。これからはもう少し気を付ける」
「思えば、晴さんは恋愛経験ゼロでした」
「おい今バカにしたな? 童貞だってバカにしたな?」
放せ、と美月の肩を引っ張ろうとしても、全然離れてはくれなかった。それどころか、抵抗されるから晴のほうが苦しくなっていく。
ぜぇぜぇ、荒い息を繰り返す晴に、美月は顔を隠したまま、ボソッと呟く。
「ミケさんの匂いを、私で上書きしておきますね」
そんな美月の可愛らしい嫉妬心は、晴に届くことはなかった――。
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