第6話 『 夫婦――ではなく婚約者として 』
一週間と二日後。
「お邪魔します」
「ん」
玄関先で一礼するミツキ――美月を迎えて、晴は彼女の持っていたトランクを奪った。
「重かったろ」
「中に入ってるのは洋服とか小物くらいなので、それほど」
「ほんとだ」
美月の言った通り、トランクは成人男性としてはかなり頼りない腕でも軽く持ち上げられた。
靴を脱いだ美月を横目で見届けつつ、リビングに通じる廊下を歩きだすと、その後ろを美月が静かについて来る。
「なにで来た?」
「電車できました。母さん、今日お仕事なので」
「そら残念。荷物運ぶの面倒だったろ」
「まぁそれなりに」
「手間かけさせて悪かったな」
「いえ、これから新居に行くんだって思うと意外とわくわくしましたよ」
「ふーん」
雑談を交えながらリビングに着けば、美月がぐるりと周囲を見渡した。
「大きな部屋ですねー」
「お世辞はいいぞ」
「お世辞じゃありません。もうっ」
美月の感想に素っ気なく返せば、大仰にため息を吐かれる。
晴が現在暮らしているのは最寄り駅の徒歩五分ほどにあるマンションだ。八階に位置しており、3LDKのペット可、オートロックにマンション入り口はエントランス有りの警備も充実されたかなり優良物件なマンションだ。気になる家賃は月々25万ほど。
「とりあえず荷物は一旦ここに置いておく。あとで自分で部屋に運んでくれ」
「私の部屋、ちゃんとあるんですね」
「じゃなきゃ結婚してくれなんて言わないだろ」
冗談なのかは分からないがとりあえずツッコミを入れた。
これから一緒に暮らしていくのに相手の部屋がないなんてどんな鬼畜野郎だ、と呆れつつ嘆息すれば、晴は「こい」と顎を引く。
美月が黙って頷いて、彼女を連れてリビングから廊下に戻る。
数十歩、歩いてぴたりと足を止めると、扉の前で指を指した。
「この部屋がお前の部屋。ここに荷物入れてくれ」
「分かりました。少し部屋の中を拝見してもいいですか? 事前に送っておいた荷物の確認もしたいです」
「もうお前の部屋なんだから好きにしろ」
ぶっきら棒に言えば、美月は晴の態度に不満を露わにしながらもドアを捻った。
ガチャ、と扉が開けば、美月が僅かに目を見開く。
「……もう色々用意されてる」
驚いたように呟いた美月に、晴は腕を組みながら言った。
「ひとまず、お前から送られてきた段ボールとかは積んでおいたし、ベッドとタンス、あと勉強机は揃えておいた。やれることはやったし、あとはお前の好きなようにアレンジしてくれ。何か欲しいものがあれば、それも気にせずに言え」
「至れり尽くせりって感じですね」
「俺は金を出すことくらいしかできないからな」
稼ぎもそれなりにあって、貯金も結構ある。なので、美月がこれから住む為の準備費用くらいは余裕で用意できた。
あっけらかんと言えば、美月は晴を金遣いが荒い男とでも勘違いしたのか渋い顔をしていた。
「私たちの関係なんて曖昧なのに、よくこんなことにお金をつぎ込めますね」
「べつにその時が来たら俺の第二の部屋として愛用するだけだ。それと慎のやつもソファで寝なくていいっていじけなくて済むし」
「シン?」
「友人だ。お前の前に俺の生活の面倒見てくれたやつ」
「それは本当に友人なんですか?」
「同じ仕事やってて週四くらい家に来てる。友人という定義には当てはまると思うぞ」
「友人の方にも淡泊なんですね」
美月が呆れた風に嘆息した。
「んで、部屋に関して何か意見はあるか?」
「いえ。特にありません。こんな素敵な部屋を用意してくれてありがとうございます」
「元々あった部屋をお前専用にしただけだから感謝される謂れはない」
「……貴方ってそういう人ですよね」
それはどういう意味か、と怪訝に感じたものの、特に気にする必要もないと感じて懐疑心を引っ込めた。
「じゃ、部屋紹介ついでにトイレとかも案内するわ」
「お願いします」
時短と効率を考えて提案すれば、美月も異論なく肯定してくれた。
先に晴が部屋を出て、その後に続いて美月が背中を追って来る。
静かについて来る美月に晴は『小動物みてぇ』と胸中で呟きながら、自身の部屋の正面で止まると、
「左側が俺の部屋。何かあったらノックしてくれ。出るか知らんが」
「そこは出てくださいよ」
美月にツッコまれるも、すんなりと応答できる自信はなかった。
「でこの隣がトイレな。その隣が風呂場と脱衣所」
「中、確認してもいいですか。勝手を知っておきたいので」
「好きにしろ」
素っ気なく肯定すれば、美月が扉を引いた。
「……綺麗ですね」
「慎がいつも掃除してくれたみたいだからな」
「その言い方だと貴方は掃除してないみたいですね」
「あぁ。此処に住んでから一回もしたことがない」
「それでよくこんな清潔さが保ててますね」
「慎がやる前は家政婦雇ってたからな」
そう告げれば、美月が驚いたように目を瞬かせた。
「……家政婦、雇っていたんですか」
「あぁ。でもすぐに辞めてもらったけどな」
「どうしてですか?」
興味があるのか食い下がる美月に晴は「あー」と理由を思い出しながら答えた。
「家政婦って、結局仕事でやってるから。決められた時間できっちりこなして、時間になれば帰る」
「仕事だから当然でしょう」
「あぁ。けどその割には聞かれることが多くて、何回も部屋をノックされたから嫌になって止めた。しかも契約金が割と高い」
「そこはしっかり重要視してるんですね」
美月が頬を引きつらせた。
まぁ、と晴は吐息すると、
「色々と雇わなくなった理由は思い出したが、やっぱ一番の理由はあれだな。メシだ」
「ご飯、ですか?」
丁寧に晴の言葉を言い直した美月に苦笑しつつ、
「メシも作ってくれって依頼したし、普通に美味かった。でも、やっぱり胃が受け付けなくてな」
「何でですか」
「俺もよく分からん。が、今になって思えば、たぶん俺は他人の作ったメシが食えないんだと思う」
ご飯はいつも炊き立てを用意してくれていたし、お味噌汁だって出汁が効いていてこれぞ和食文化の宝だと文句の付け所なんてなかった。
たぶん、晴が雇った家政婦は相当優秀な人物だったと思う。それでも、晴の胃はあの家政婦の料理を拒んだ。
それは、晴が彼女に気を許さなかったのが原因だったのかもしれない。
どれだけ晴の事を考えてくれていたとしても、所詮は赤の他人。そんな潜在意識が、あの時箸を持つ手を止めたのだろう。
晴の言葉に、美月は困ったように吐息した。
「そう言われてしまうと、私も結局、貴方の他人なんですが」
「他人じゃないだろ。もう妻だ」
「……なら食べられるんですか?」
「それは作ってもらわないと分からない」
そこは自信持って頷いてくださいよ、と呆れられた。
「はぁ。ご飯が食べれないって理由で私を追い出したら、お母さんに殺されますよ?」
「うぐ」
美月の口から出た『母』という単語に晴は思わず呻いてしまう。
「たぶん食べれる。大丈夫だ」
「期待しないでおきますね」
自身のない晴の声音に美月が素っ気ない声で返した。
「ご飯の件はまた後で。さ、早く次の部屋に案内してください」
「ん」
ぱんぱん、と手を叩く美月に催促されて、晴は気を取り直して案内を続行した。
「ここがリビング」
「本棚が置いてありますね」
「仕事部屋に置き切れないやつ置いてる」
リビングに置かれている本棚は現在、二台。一台は主に、晴の書籍作品と作品のグッズ類が置かれている。二台目は主に新刊が置かれているが、これは今年の確定申告用として管理する為である。
晴は確定申告を税理士に依頼しているが、何年目か続けていくうちに経費に含めるものは纏めて管理した方が楽だ、という考えに至った訳だ。
確定申告やら経費やらのややこしい話はさておき、
「仕事部屋に本はどれくらいあるんですか?」
「さぁ、増えてくばかりだから数えきれん」
「……適当」
ジト目を向けられるも気にすることなく晴は部屋の案内を再開した。
「ここがキッチン」
「ふむ。綺麗ですね」
「慎がいつも磨いてくれる」
「貴方にとって慎さんはもはや神ですね」
「だな」
神と呼ぶに値するくらいには慎に家の事でお世話になっている。もっとも家主がその事実を知ったのはつい最近だが。
キッチンに備わっている調理器具や食器を確認している美月が振り向かず質問してきた。
「もう薄々感付いてますが、晴さん、掃除や料理したことはあるんですか?」
「バカにするな。掃除機かけるのと整理整頓くらいはできるわ。あと、料理は時間がないからしないだけで、高校生の時はたまにやってた」
「では、からきしという訳ではないんですね」
「一応な」
晴もあまり覚えていないが、家事や料理に手を出さなくなったのは執筆を人生の最優先にした頃からだ。
高校を卒業してからは滅法手をつけなくなってしまったが、全くできなくはない……と思いたい。
「まぁ、作品の参考にする為に半年に一回くらい料理はする」
「小説家としての熱意は分かりましたから」
軽くあしらわれた。
「キッチンは私の好きに使っていいんですよね」
「あぁ。つーか、仕事部屋と俺の部屋以外は全部好きに使ってもいいぞ」
随分と大胆な事を言うと、美月がそれはどうかと苦笑を浮かべた。
「なら、リビングにおっきなぬいぐるみを置いても?」
「いいぞ」
「……部屋の壁を全部ピンクにしても?」
「いいぞ」
「みらぼー……」
「いいぞ」
「もうどうでもよくなってますよね?」
バレたか。と舌打ちすると、美月が何度目かの分からない溜息を吐く。
「貴方がこの家の家主なんですから、しっかりルールを設けてくださいね」
「だから好きにしてくれて構わない」
「本当に小説以外は適当な人ですね」
「適当に言ってはないぞ。もう俺だけの家じゃないからな。お前の家でもあるだから好きにしろって言ってるんだ」
「……っ。その言い方はずるい」
「は? 何が」
「ふんっ。教えません」
嬉しそうに頬を朱に染めたり、怒ったり、よく分からない生き物だ。
そっぽを向いた美月に、晴は『まぁどうでもいいか』と胸中で呟くと、
「最後に、リビングの奥にある部屋が俺の仕事部屋だ」
「部屋、仕事用とプライベート用で使い分けてるんですね」
「両方執筆できるようには整えてあるけど、仕事部屋の方に資料の本とか小説が多くあるからそっちで書く方が楽なんだよ」
ちょいちょい、と手招きして美月を誘導すれば、晴は仕事部屋のドアノブの前に立った。
そしてドアノブに掛けられてある木板を手に取ると、
「この札が【執筆中】になってる時は極力ノックはするな。どうしても用がある時だけノックしろ」
「そういえば、貴方の部屋の前にもこれがありましたね」
「どっちで執筆するかは気分だからな。あっちの部屋の時も、札が【執筆中】になってたらノックはするな」
「分かりました」
美月が理解したように顎を引いた。
やっぱり聞き分けの良い子だな、と胸中で呟きつつ短く息を吐けば、
「これで家の案内は終わり。疲れた、休憩」
「説明ありがとうございます。何か飲み物でも取って来ましょうか?」
「来たばかりで使い勝手まだよく分かってないだろ。俺がやるから、お前は適当に座ってろ」
「…………」
美月に乱暴に言って、冷蔵庫に向かおうとした晴の足が止まった。
「なに?」
振り返れば、ちょこん、と美月が付いて来ていた。
眉根を寄せれば、美月は「お構いなく」と愛想なく答える。
「冷蔵庫の中身をまだ見ていませんでしたし、コップの場所とかもう一度確認しておきたいんです。ですから、お構いなく」
「あっそ」
お構いなく、と言われたので気にする必要はないと感じて再び冷蔵庫に向かった。
カチャ、と冷蔵庫を開ければ、美月が中を覗きこんだ。
「見事なまでに何もありませんね」
「飲み物はあるだろ」
「むしろ飲み物しかないじゃないですか」
晴の家の冷蔵庫は閑散としていた。
美月の言う通り中には飲み物と一昨日辺りか慎が遊びにきて置いていったおつまみがいくつかあるくらいだった。飲み物もパックのレモンティーと二リットルのお茶と飲みかけの水しかない。
「お酒、飲まないんですか?」
「執筆の邪魔になるから飲んでない」
「健康志向、という訳ではないんですね」
「炭酸水なら割と飲む」
「へぇ。何が好きなんですか」
「あんまり甘くないやつ。ジンジャーエールが好きだ。辛めの」
「あぁ、なんとなく分かりますね」
甘いと途中で飲み飽きてしまって、炭酸飲料の中でも晴は先の物やサイダー系が好みだった。
「お前も炭酸飲むのか」
「たまに。でも、よく飲むのは紅茶とかレモンティーです」
「へぇ。タピオカミルクティーとか飲まないの?」
「友達と出掛ける時は飲みますよ。でも、頻繁に飲もうとは思いません」
「なんでだ?」
「カロリー高いですから、あれ。端的にいえば太る一因なんです」
「ふーん。お前も体型気にするんだな」
「女の子ですから。あと、私に失礼では?」
「他意はない。細いのに気にするんだな、って意味だ」
「ならいいです」
晴の言葉の何に満足したのかは分からないが、言及する視線が逸れた。
小説の参考にはなったのでかきかき、と美月の先の言葉を脳内メモに留めて置きつつ、
「じゃあお前はレモンティーでいいか。パックので悪いけど」
「構いませんけど、直飲みしてませんよね?」
「昨日買ったやつだし、確かコップで飲んだ気がする」
「……あぁ。それで」
美月の視線がシンクに映って、そこに放ってあるコップに納得と吐息をこぼした。
ちなみにシンクの中にはコップしかない。
さらに美月の視線がゴミ箱に移動すれば、
「昨日は何を食べたんですか」
鋭いなコイツ。
「昨日はコンビニ……あー、たしか宅配で注文したメシだった気がする」
「でしょうね」
シンク一つでそんな事まで分かるのかと恐ろしくなったが、これ以上詮索されるのも良い気がしないので強引に終わらせる。
「俺の昨日のメシ事情はもういいだろ。ほれ、用意するから、そこどけ」
「はい」
美月も深くは追及することなく冷蔵庫から数歩下がれば晴の手際を観察していた。
見られているとやりづらいな、と思いつつもコップを二つ取り、片方のコップには注文通りレモンティーを。もう片方のコップには自分用に水を注いだ。
コップを二つ持ちながらソファーへと向かえば、レモンティーの方を美月に渡して晴はどっとソファーに腰を下ろした。
「……疲れた」
ぽつりと呟けば、普段は使わない体力を使った気がして疲労感を覚える。
乾いた喉に水を運べば冷ややかな感触が喉奥を通っていく。
コップに口を付けていると、美月がちょこん、と隣に座ってきて晴と同じようにコップのフチに唇を付けた。
こくこく、と可愛らしく飲む姿がいかにも小動物だった。
隣に、しかも家に少女がいる事が違和感しかない。ただ、その元凶は元を辿れば晴自身なのだが。
「……今更だけど、お前、俺の馬鹿げた提案によく乗ったよな」
そう言えば、美月が眉尻を上げて振り向いた。
「まぁ、私にとっても不利益な話ではないと思ったので」
「一番意外だったのはお前の親だがな」
「あはは。それ言われると私としてもどう答えていいのか難しいですね」
二人揃って、先週の日曜日を振り返って苦笑を交わした。
「ま。お前の親から許可は取ったし、これで合法だな」
「危なっかしい橋を渡るなと私に注意したくせに、自分は平然と渡るんですね」
「それくらい優良物件だと思ったんだよお前を」
「果たしてそれ程の価値が果たして私にありますかね」
「それはこれから証明してくれ」
「できなくて追い出されたらどうしましょうか」
「そうなると俺がお前の母親に殺されるからマジで努力してくれ。つーかしろ」
「はいはい」
やや強い口調で言っても、美月は怯えるどころかあしらうように対応した。
既に晴の本性にも慣れ始めている美月に、晴は思いを馳せる。
先週の土曜日。美月と出会った最後に彼女へと放った言葉。
――『結婚しないか』
初対面の相手にそんな馬鹿げた告白をされれば普通は断るはずだ。
それなのに美月は「分かりました」とまさかの二つ返事をくれた。
どうして、美月が晴のこんな馬鹿げた提案を受け入れてくれたのかは分からない。
互いの利益がたまたま一致したから、というには些か判断材料に足りない気がする。
それでも今こうして、確かに新しく二人での生活が始まった。
厳密にいえば、二人は夫婦ではないが。
「じゃ、これから〝婚約者〟として宜しくな」
「こちらこそ。宜しくお願いします。私の〝婚約者〟さん」
晴と美月は夫婦ではなく婚約者として、同棲生活を始めていくのだった――。
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