第7話 『 名前、なんて呼び合いましょうか 』


 晴が出会い系アプリで出会った少女――ミツキ。


 偽名だと思っていた名前はまさかの本名を使っていて、真名は『瀬戸美月』という。


 晴の(現在は美月の住処でもあるが)マンションの最寄り駅から十五分ほどにある月波高校に在籍している二年生だ。つまり、現役ピチピチの女子高校生JKである。


 家に女子高校生が居る、という現実が既に警察案件な気がするも、そこは慎重かつ問題は起こしたくない晴に抜かりはない。


 あんな馬鹿げた提案をした翌日、美月の実家に赴き彼女の母親、瀬戸華にはきちんと挨拶を済ませている。最初は懐疑心を向けられたものの、美月の説得も手伝って『夫婦という形にはまだ納得できないけど、婚約者としてならば美月を任せる』と承諾を得た。


 つまり、これで晴は美月(未成年)との仲は親公認であり即ち同棲しても問題はない! という権利を手に入れた事になる。やや、というかかなり法の隙を突いた気がするが、捕まるような事案でなければ問題ない。


 とにかく、これで晴れて晴と美月の同棲生活がスタートした訳だ。


「そうだ。名前」

「あ?」


 そろそろ執筆に戻るかと腰を上げようとして、美月が思い出したように言った。

 怪訝な顔をする晴に、美月は「だから」と継ぐと、


「名前、なんて呼び合いましょうか」

「別にどうでも良いだろ」

「いや良くないでしょう。仮にも夫婦? 恋人? 婚約者……なんですから」

「お前もまだ完全には把握しきれてなねぇじゃねえか」


 口ではこう言っているが、実は晴も展開がエグ過ぎてフィクションのような現実に脳が整理し切れていない。


 それを隠しつつ一考すると、


「俺はお前をなんて呼べばいい?」

「好きに読んでください。美月とでも、瀬戸とでも。なんならあだ名でもいいですよ?」


 言下に少し挑発が感じられたのは、どうせ貴方には無理でしょうね、という他意がふんだんに込められているからなのだろう。

 実際、美月の思惑通り『みーちゃん』とか『みっつー』とか言うには年齢的に悪寒が走るので絶対に嫌だった。

 そうなると、


「じゃあ美月でいいや」

「分かりました」


 素っ気なく決めれば、美月が短く頷く。


「んじゃ次。お前は俺を何て呼ぶつもりだ?」


 美月がふむ、と顎に手を置いた。


「貴方」

「なんかよそよそしいな」

「じゃあ晴くん……いえ、晴さんで」


 少しだけ〝くん〟付けに憧れがあったのか、意図せず漏れた言葉を誤魔化すように決めた。


「ん。じゃ呼び方は決まりで」

「どうせ貴方は私を『お前』と呼ぶんでしょうけどね」

「お前だって今俺の事を『貴方』って呼んだからな?」


 あ、と二人揃って口に手を当てた。

 やはり、まだ互いに距離感があるのか自然に名前は呼べない。


「はぁ。これから先が思いやられますね」

「なんとかなるだろ」


 あっけらかんと返せば、美月がジロリと睨んできた。


「なんとかしてくれるんですか?」

「面倒だな」

「ホント、貴方って小説以外には無関心ですよね」


 肩を落として、美月が続ける。


「初めて会った時とか、お母さんに挨拶しに行く時はしっかりしてたじゃないですか」


 私を美月さん、と呼んでくれたのに、と美月が頬を膨らませるも、


「あれは社会人としてはマナーみたいなものだからな。つーか、相手の親に挨拶しに行くのに今日の恰好で行ってみろ。半殺しにされて追い出されるぞ」

「それもそうですね。……まあ、私のお母さんは外見ではなく内面を見るので、そのジャージ姿で挨拶してもギリギリオッケーは出してくれたかもしれませんが」

「それはない」


 思わず鼻で笑ってしまった。


「お前のお母さん。お前のことめっちゃ大切にしてるぞ」

「なんで分かるんですか?」

「挨拶しに行った時、お前を見る顔がすごく母性に溢れてた」


 晴が話している最中に、華は晴を真っ直ぐ見ていながらも時々視線を隣で正座していた美月に映移していた。その時の顔があまりに我が子を思う母親の顔で、だからか今でも華の顔が鮮明に思い出せる。


「いきなり娘が知らん男と結婚するって言うんだ。そりゃ母親としては困惑して当然だわな」

「お母さんには感謝ですね」

「お前はいいお母さんを持ったよ」


 その言葉に嘘偽りはない。本心だ。


 それと同時に、何故こんな優しく理解力もある母親から美月が離れたいと望んだのかが理解できなかった。少なくとも、家族仲が悪い、という印象は見受けられない。


 父親がいない時点である程度の想像はつくが、それにしても不可解である。


 しかし、それを知る権利はまだ晴にはないと思ったし、自分から告白してくれるか時間の中で真実を知る機会まで待つ事にした。


 執筆に大抵の時間を割くし、忘れっぽい一面もあるが、これだけは絶対に忘れない自信があった。


 だって時折、美月が家族の話をすると悲しい顔をするから。


 今だって、平常を装っているが胸裏で感情が奔流しているのが否応なく分かってしまう。


「(癖はどうしようもねぇからな)」


 晴は、人よりも他者の感情を読み取る能力や観察眼が秀でている。それはこれまでの人生経験によって培われたもので、決して本人が望んで手にした能力ではなかった。


 しかし、だからこそ美月の正体に気付いたし、華の心理にも気づけた。一概に否定できない能力であることは確かだった。


 やめよ、と頭を振れば、


「俺は今から原稿書き始めるけど、お前はまだ俺に何か質問あるか?」


 母親の話題から無理矢理に話題を切り替えれば、美月が咄嗟の事で「え」と戸惑う。


「そ、そうですね……何か、あ」


 おろおろとする美月が、不意にリビングの時計を見つけて声を上げた。


「今はもう十一時半、ですか……そろそろお昼になりますけど。お昼はどうしますか?」

「原稿書くからいらない」

「は?」


 美月が素っ頓狂な声を上げた。


「あの、お昼……食べないんですか?」

「腹が減ったら部屋にストックしてある軽食食うよ。俺、体力ないからご飯食ったあとは眠くなるんだ。だからあんま食わない」

「いやだからって……ちゃんと食べないと、それこそ体壊しますよ」

「人間。寝てたらどうにか生きられるもんだ」

「いやいや! そんなのただの屁理屈じゃないですか」

「安心しろ。ソースはこの俺だ」

「なんの証明にもなってませんからね⁉」


 どうにか晴にお昼を食べさせたいのか、美月が必死に説得するも晴は一顧だにしない。


「腹が減ってんなら近くにコンビニあるし、何か作りたいならスーパーで買ってこい。金なら後で渡しておくから」

「いや金銭の事じゃなくて! 貴方、私に家事して欲しいから結婚しろって言ったんですよね⁉」

「そうだけど」

「なら一緒にご飯食べましょうよ!」

「なんで?」

「なんで⁉」


 美月が信じられないと目を白黒させた。


「俺はお前と一緒にメシを食いたいから結婚したんじゃない。美味いメシを食いたいから結婚したんだ」

「なら、作りたての方が美味しいじゃないですか」


 それは正論なのだが、正論よりも執筆が優先である。


「俺は執筆を優先する。これは何があっても変わらない。お前はそれに同意した。なら、お前は俺の意思を尊重するべきじゃないのか?」

「……ッ⁉」


 正論を暴論でねじ伏せれば、美月が口を噤んでしまう。


「ご飯はタイミングが合えば一緒に食えばいいだろ。それ以外は別々で俺は構わないと思ってる。俺がお前に任せてあるのは家事だ……」


 一拍置いて、


「お前が俺に望んだのは〝整った環境設備といつでも一人立ちできる為の資金を集めること〟だろ」

「……えぇ。そうですね」


 歯噛みしながら美月が晴の言葉を首肯した。

 そう。この同棲生活は、晴と美月が互いの利益の為に組まれたものだ。

 だから、そこに〝愛情〟なんてものは欠片もない。


「それじゃ、俺は今から原稿書くから。お前は昼食取るなりくつろぐなり好きにしてろ」


 淡泊に言いながら立って、晴は仕事部屋に向かっていく。

 扉を開けて、部屋に入る。扉を閉める直前、こんな文句が聞こえてきた。


「この、執筆バカっ」

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