第17話 『 今日はもう仕事しないというまで離しません 』
婚約者と初めて過ごす休日であろうと、晴の予定は変わらない。
昼食は要らないと美月に伝えておいたので、おそらく美月は十二か十三時頃に一人で昼食を取っているだろう。最初は晴が昼食を不要とした事に不服気だったが、執筆が終わったら軽食を頼むといえば膨れた頬がしぼんでくれた。
執筆のスタートを十一時半として、そこから三時間ほどパソコンと睨めっこ。
一区切りだな、と重い吐息を吐けば、晴は仕事部屋を出た。
「お疲れ様です」
リビングでくつろいでいた美月が扉の開くに反応して振り返った。
「おう」
晴の短い挨拶を受けて美月が立ち上がれば、束ねた黒髪が揺れた。
「軽食、すぐに作りましょうか?」
「いや、少し休んでから食べる」
「分かりました」
お腹は空いている感覚はあったが、それよりもひと心地着きたかった。
とりあえずテーブルに向かおうとして美月の横を通り過ぎる直前――くらっと視界が歪んだ。
「うわっ」
平衡感覚がブレてよろける寸前。美月が驚いたような声を上げながら晴を支える。
足に力を込めて体勢を立て直せば、晴は頭を振った。
「……悪い」
「いえ……もしかして、体の調子悪いんですか?」
低くなる声音に、晴は否定した。
「別にそういう訳じゃない。ただ、たまに集中し過ぎて眩暈が起きることがあるだけだ」
「それ、無茶している証拠では?」
美月の顔に懸念が浮かぶ。
「心配しなくていい。倒れる、なんて事はないから。それに無茶はしてない」
「でも、いつも執筆してますよね?」
「それが俺の仕事だからな」
毎日書いてはいるが、定期的に休息も取っている。
ただ最近は、休息を取っても執筆中に頭がくらくらがする事が頻繁に起こるようになった。
「一度、病院に行った方がいいのでは?」
「前に慎に無理矢理連れてかれた」
あれはたしか、原稿が重なった時だったか。進行中の原稿と特典用の短編小説を書かなければいけなくなって、それが予想以上に難航して無茶を続けた結果、慎の前で倒れた。
長々と検査したわりに医者には『過労』と判断されてから、晴はどうせまた同じ結果だろうと思って先のような眩暈が起きても病院には行かなくなった。
「ちゃんと休みましょうよ」
「休んでる」
「休んでません」
執拗に休む事を強要してくる美月に、晴は苛立ちを覚え始める。
「ちゃんとメシ食って、寝てる。なんならサラリーマンよりも寝てる方だ」
「でも、眩暈が起きてるんですよね? それを放って置いたら、いつか本当に倒れますよ」
しつこい。
「俺はお前に頼んだのは家事だ。部屋も好きに使っていい。ただし、俺の仕事には口出しするな」
「今の状況をみて、口出ししない訳にはいかなくなりました」
意固地になれば、美月も食い下がった。
「お前には関係ない」
「関係あります」
「ない」
「あります。私は、貴方の婚約者です」
だからなんだ、と突っ張り返そうとした時だった。
唐突に美月が抱きついてきた。
「貴方が無茶するのは、見ていられません。好きだから、とかではありませんが、貴方がいなくなると、私が困るんです」
「――――」
美月の言葉に、晴は戸惑う。
自分が居なくなると困ると、そう言われたのは初めてだった。
無論、晴を止めるのは美月自身の利益の為だろう。晴がいなくなれば、美月の『独り立ちしたい』という目的がまた振り出しに戻ってしまう。
目的の為。そのはずなのに、美月の声からは本気で晴を心配しているような温もりを感じられて。
「――はぁ」
深く溜め息を吐けば、晴は抱きつく美月の背中を叩いた。
「いい加減、離れろ」
「今日はもう仕事しないというまで離しません」
ぎゅっ、と抱きしめる腕がさらに強くなる。
「分かったから。今日はもう書かない。だから、離れろ」
「本当ですか?」
「本当だ。俺は、嘘は吐かない」
言い聞かせるように言えば、ようやく腕が離れていく。
時間を掛けて美月が顔を上げれば、その紫紺の双眸がわずかに潤んでいて、
「もう少し、自分を大切にしてください」
「分かったよ、大切にする」
「作品よりも、ですよ」
「それは無理」
「そこは肯定してください」
頬を膨らまされても、それだけは小説家として絶対に譲れない。
晴にとって先品は、我が子と同然なのだ。親が子を優先するのは当たり前だと思うし、だから晴も、作品の生みの親として子を大切にする。
「俺は、小説が全部だ。それで無茶も時々する」
だから、と照れくさそうに頬を掻けば、
「これからは、無茶しようとする俺をお前が止めてくれ」
懇願すれば、美月の紫紺が大きく見開く。
数秒。彼女は驚愕したような、戸惑ったように口を開けたままだった。
羞恥心で逸らしていた黒瞳を眼下の少女へ戻せば、その愛らしい顔が嬉しそうに微笑んで。
「えぇ。これからは、私が無茶する貴方を止めますね」
晴の懇願を、柔和な顔で肯定してくれたのだった。
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