第299話 『 朝から好きな人の顔を見られるって、最高だね 』
――社会人にとって、朝は学生の十倍は憂鬱だ。
毎日遅くまで残業して、それなのに朝は早く起きなければならない。
たまに定時に上がれることはあっても、家に帰ると一人で「ただいま」と言ってもそれが返ってくることはない。
冬は暖房が効くまで時間が掛かるし、お風呂は面倒だからシャワーで済ませることがほとんどになってしまう。ご飯なんて作る気力もなければそもそも出来ないので、帰りに値引きされたお弁当を買ってそれをレンジで温めるだけ。
唯一の楽しみはアニメを鑑賞しながらお酒を飲むことくらい。
仕事が繁忙期になれば、趣味のコスプレなんてやってる暇もない。
そんな。どこか鬱屈とした毎日。
「――あ、おはよう詩織ちゃん」
けれど今。詩織にはこうして憂鬱な朝から挨拶をくれる人がいる。
同棲するための予行練習として、しばらくの間一緒に同じ屋根の下で暮らすことになった恋人。
朝早く起きる必要なんてない彼は、詩織の為にわざわざ早く起きて朝食の準備をしてくれた。
「……おはよ。慎くん」
まだ覚醒途中の意識は、瞼を擦りながら挨拶を返す。
それからとぼとぼとおぼつかない足取りで彼のもとに向かっていくと――
「んっ」
「――っ⁉」
詩織は冷たい唇を押しつけた。
「……な、なんで急にキスしたの?」
露骨に狼狽える慎に、詩織は「えーっとね」と頭をくらくらさせながら答えた。
「慎くんがそこにいるからー」
「あはは。これはまだ寝ぼけてるなぁ」
「起きてるよぉ」
けれど、呂律はうまく回っていない。
「ほら、早く顔洗って、着替えてきて。朝食の準備はしてあるから」
「やだぁ。もうちょっと慎くんにくっついてるぅ」
ぎゅっと抱きしめれば、冷たい朝にちょうどいい温もりが伝わってくる。
「遅刻するよ?」
「しませしぇん」
「……何このカノジョめっちゃ可愛い。じゃなくてっ」
何か葛藤するしている慎が首を横に振って、
「詩織ちゃーん。早く顔洗いに行きましょねぇ」
「うぅ。子ども扱いしないでよぉ」
「してないから。だからほら、一緒に顔洗いにいこ」
駄々っ子を宥める保育園の先生のような朗らかな声に、詩織もこくりと頷く。
それから、詩織は慎に背中を押されながら廊下を歩いていく。
「ね、慎くん」
「どうしたの?」
「朝から好きな人の顔見れるって、最高だね」
「あはは。嬉しいこと言ってくるなぁ、詩織ちゃんは。ほら、ホットミルクも作ってあげるから、今日も一日頑張ってきて」
「うん。超頑張れる気がする」
慎の顔を見ると、憂鬱な朝も少しだけ楽しく思える。
慎の声を聴くと、朝が訪れる度に張っていた緊張もしなくなった。
家に帰ってくれば好きな人がいると、仕事も頑張れる気がした。
「(――あぁ。私。慎くんとずっと一緒にいたいな)」
段々と覚醒していく意識が、それを強く想う。
本当に同棲すれば、こんな幸せな毎日が送れると思えば、俄然仮の同棲では満足できなくなって。
「……慎くんは誰にも渡さないからね」
こんな素敵なカレシに愛想尽かされないように、より女を磨くことを、詩織は密かに胸に誓うのだった。
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